「阿弥陀仏に救われた」

Posted on 10月 23rd, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは | コメントは受け付けていません。

 前回、『正信偈』の冒頭「帰命無量寿如来 南無不可思議光」「無量寿如来」「不可思議光」「阿弥陀仏」の別名であることをお話ししました。せっかくですから、この二行にどんなことが書かれているか、続けて述べてみましょう。
「帰命」と「南無」は同じ意味です。浄土真宗の方なら「南無というは帰命なり」という蓮如上人の『御文章』を聞かれたことがあると思います。「南無」は昔のインドの言葉、帰命は昔の中国の言葉です。仏教は、お釈迦さまがインドで説かれ、中国へ伝えられましたから、昔のインドの言葉や、中国の言葉が使われているのですね。

 では「帰命」とか「南無」とはどんな意味でしょうか。分かりやすくいえば「救われた、助けられた」ということです。

 ですから、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とは「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」と同じことを二度、繰り返されていることになります。

 なぜ二度も、と思われるでしょうか。本当は二度くらいでない、弥陀に救われたうれしさには言わずにおれない、叫ばずにおれないという御心が、この二行にあふれているのですね。

 さて、ここから分かることは何でしょうか。阿弥陀仏の救いとは、どんなものなのでしょうか。

阿弥陀仏には別名がたくさん

Posted on 9月 15th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは | コメントは受け付けていません。

有名な親鸞聖人の『正信偈』は、

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)

で始まります。この「無量寿如来」も「不可思議光」も「阿弥陀仏」の別名であるということを、ご存じでしたか。

仏教は約二千六百年前、インドでお釈迦さまが説かれました。その釈迦が、「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」と私たちに教えてくださったのが、阿弥陀仏という仏です。

『御文章』では、

ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば」(二帖目八通)

と分かりやすく教えられています。

本師本仏とは師匠、先生ということ。「阿弥陀仏は大宇宙のあらゆる仏の師匠であり、いちばん偉い仏である」ということです。『正信偈』の初めに、「無量寿如来」とか「不可思議光」といわれているのは、その阿弥陀仏の別名なのです。

阿弥陀仏は本師本仏ですから、たくさんのお徳(お力)をもっておられます。それで、たくさんの別名があります。なぜお徳がたくさんあると、名前がたくさんになるのかといえば、お徳(特徴)に応じて、いろいろの名で呼ばれるからです。人間でも、あの人は将棋の名人、碁も一番、剣道も世界一、柔道も世界一となんでもできる人がいたら、その人にはいろいろの呼び名がつくでしょう。阿弥陀仏のお力は無限、なんでもできる仏さまですから、たくさんの名前をもっておられるのもうなずけます。二十幾つあると言われます。

中でもよく使われるのが無量寿如来。次が不可思議光如来。『正信偈』の最初にも、その二つの名前が用いられています。ですから、ともに、阿弥陀仏のことなのです。

「それなら最初から、帰命阿弥陀如来、南無阿弥陀如来」と書いてくださったら分かりやすいのに、と思われるかもしれませんが、阿弥陀仏にはいろいろなお徳があることを示され、また文章には、やはり変化があったほうが読みやすいということもあるのではないでしょうか。

なぜ、阿弥陀仏が本師本仏なのか

Posted on 8月 3rd, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは | コメントは受け付けていません。

浄土真宗親鸞会発行の高森顕徹先生の著書に「こんなことが知りたい」というシリーズ4巻の本があります。
その中から、いくつかの内容をピックアップして紹介しましょう。

阿弥陀仏は、この地球上でブッダとなられたお釈迦さまの先生である、と説かれています。
お釈迦様だけでなく、大宇宙のあらゆる仏の先生であり、師匠にあたる仏が阿弥陀仏である、と言われますが、そのことについて学んでみましょう。

[問]
阿弥陀仏は本師本仏だから、あらゆる仏や菩薩は阿弥陀仏を称讃し礼拝するのだとお聞き致しますが、その根拠は何処にあるのでしょうか。

[答]
釈迦の前に仏なし釈迦の後に仏なしといわれますように、この地球上に現れた仏は釈迦ただ1人であります。

その釈尊が35歳で成仏してから80歳でご入滅するまでの45年間の教えがすなわち仏教ですが、いったい釈尊は何を説くのが目的であったのでしょうか。

親鸞聖人は『教行信証』に、

「それ真実の教をあらわさば、すなわち大無量寿経これなり」

と喝破なされています。

釈迦一代の教えは真実の経、『大無量寿経』唯1つを説かんがための方便であったのだと断言なされています。

では『大無量寿経』には何が説かれているのでしょうか。それはただ、すべての人々が本当に幸福に救われる阿弥陀仏の本願のみが説かれています。

ゆえに、親鸞聖人は『正信偈』に、

「釈迦如来がこの世に生まれられた目的は、ただ、弥陀の本願のみを説かんが為なり」

と仰せになっております。

釈尊は、阿弥陀仏の使いの者として、この世に出て阿弥陀仏の本願を説かれたのです。これを聖人は、

「久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏
五濁(ごじょく)の凡愚(ぼんぐ)をあわれみて
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)としめしてぞ
迦耶城(がやじょう)には応現する」(和讃)

とおっしゃっています。

また、親鸞聖人の仰せのとおり釈尊は、一切経に阿弥陀仏のことばかりほめたたえていられます。

「阿弥陀仏の威神光明は最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり」(大無量寿経)

とか、

「十方無辺不可思議の諸仏如来、阿弥陀仏を称讃せざるはなし」

とか、

「諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり」(大阿弥陀経)

とか、挙げればきりがありません。

ゆえに

「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」

と天台宗の荊溪(けいけい)でさえ驚いているのです。

ではなぜ阿弥陀仏を一切の仏方が称讃し礼拝されるのか。その理由は『般舟経』(はんじゅきょう)に明らかに説かれています。

「三世の諸仏は、弥陀三昧を念じて、等正覚(仏)に成る」

これは一切の諸仏は、最後は阿弥陀仏のお力によって、仏になったということです。大日如来も薬師如来も、そうであるように釈尊もその例に漏れません。

ですからあらゆる仏は阿弥陀仏には頭が上がらないのです。本師本仏と崇め奉る道理ではありませんか。

三世十方の諸仏たちでさえそうなんですから、ましていわんや私たちは一向専念阿弥陀仏で、阿弥陀仏一仏を一向に信じ奉るより、絶対の幸福になる道は毛頭ないことをよくよく知らなければなりません。

(「こんなことが知りたい2」[14]より)

阿弥陀仏の本願とは、どんなことなのか

Posted on 7月 10th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは, 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

浄土真宗親鸞会発行の高森顕徹先生の著書に「こんなことが知りたい」というシリーズ4巻の本があります。
その中から、いくつかの内容をピックアップして紹介しましょう。

[問]
私は余り仏法を聞いたことのない者ですが、病気になり今死ぬとどうなるのかと思うと、大変おそろしく思います。阿弥陀仏の本願とはどんなことでしょうか。

[答]
阿弥陀仏といわれる仏は宇宙最高の仏です。
原子物理学者でなければ小さい原子の世界は分からないのと同じように、仏の境界のことは仏智を諦得なされた仏でなければ分かりません。
この地球上で今日までに仏の境地に出られた方は、釈尊の外にはありません。
釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なしです。

その釈尊が、35歳の12月8日に成仏なされて80歳の2月15日に涅槃の雲にかくれられるまでの45年間に説かれた一切経の中には、大宇宙にまします数多くの仏の御名前が出ていますが、その中で一番多いのが阿弥陀仏の御名前です。
だから天台大師でさえ「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」と驚嘆したのです。

「諸仏の中の王なり」とか「最尊第一の仏、阿弥陀仏」とか、「諸仏の中の極尊なり」等、あげればキリがありませんが、何しろあらゆる仏の中の大統領にあたる無上の仏なのです。
大日如来や薬師如来や、釈迦如来なども、みな阿弥陀仏の弟子であり家来であり、使いです。

だから親鸞聖人は『和讃』に、

「久遠実成(くおんじつじょう)の阿弥陀仏、
五濁(ごじょく)の凡愚(ぼんぐ)をあわれみて、
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と示してぞ、
迦耶城(がやじょう)には応現(おうげん)する」

と言われたのです。

その阿弥陀仏を焼く創価学会などは、断じて仏教ではなくて、外道の親玉だということが分かるでしょう。

さて、その宇宙最高の阿弥陀仏がどんな本願をたてられたかとのお尋ねですが、本願ということは誓願ともいいまして、約束ということです。
どんな約束をわれわれとなされたのかと申しますと、あらゆる人々は不幸で苦しみ悩み続けている。
あればあるで苦しみ、なければないで苦しむ、所詮苦より離れ切れない、あわれな存在である私達を何とか助けてやりたい、という大慈悲心をおこされました。
そして「われを信じよ。どんな苦悩をもつ者でも、この世も未来も最高無上の幸福にしてみせる。若し、絶対の幸福に出来なかったら、仏の生命を捨てよう」と約束なさったのです。

この世も未来も、どんな苦悩を持つ者も平等に絶対の幸福を与えようという、とてつもない本願ですから『正信偈』には「無上殊勝の願を建立なされた」と親鸞聖人は仰有っておられます。
この大誓願を信ずる一念に、本願の通りに絶対の幸福になることが出来るのです。

(「こんなことが知りたい1 [16]より)

阿弥陀仏の「必ず絶対の幸福に生まれさせる」のご念力

Posted on 6月 7th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは, 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

絶対に色あせることも崩れることもない幸福が、絶対の幸福であり、歎異抄には摂取不捨の利益と教えられています。

しかし、そう聞くと私たちは、「摂取不捨の利益?そんなもの本当にあるの?」「絶対の幸福になんかなれるはずがない」などと、本願を疑います。
中には「絶対の幸福なんて夢物語、ユートピアだ」「脳内現象じゃないか」「どうせ特殊な宗教体験だろう、自分とは関係ない」と怪しむ人もありましょう。

そこで阿弥陀仏は、「十方衆生」のその疑いを晴らして、「絶対の幸福」に救い摂るために、「正覚」(仏の覚り)の命を懸けて誓われているお言葉が、
「若不生者(にゃくふしょうじゃ)不取正覚(ふしゅしょうがく)」(若し生まれずは、正覚を取らじ)
の8字です。

これは、阿弥陀仏の本願、漢字36文字の一節です。

「正覚」とは「仏の覚り」のことであり、仏覚は仏さまの命ですから、これは、
「もし『信楽(しんぎょう:絶対の幸福)』に生まれさせることができなければ、命を捨てる」
といわれているお言葉です。

阿弥陀仏が命を懸けて、私たちを「必ず絶対の幸福に救う」と誓われているのが、「若不生者(にゃくふしょうじゃ)の誓い」なのです。

卑近な例えで言うと、銀行でローンを組む際、こちらの返済能力を疑う相手の疑念を晴らすために、土地や建物を担保に入れるでしょう。

阿弥陀仏は私たちの、「本当に助かるのか」の疑心を晴らすために、自身の命を担保に、
「平生ただ今、必ず絶対の幸福に生まれさせる」
と誓われているのです。

このように、阿弥陀仏のお力で絶対の幸福に救われたことを、信心決定(しんじんけつじょう)とか、信心獲得(しんじんぎゃくとく)と言います。

この絶大な「若不生者のご念力」によって、平生の一念、疑心が晴れわたり、必ず「信楽」に生まれる時が来るのだよと、親鸞聖人は生涯、教え続けていかれたのです。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ
(親鸞聖人)

親鸞聖人が、どんなご生涯を送られた方か、親鸞聖人のお歌といって、親しみやすく歌で教えられたものがありますので、その歌を通じて学んでみられるのもよいですね。

阿弥陀仏のお約束の内容とは

Posted on 5月 11th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、すべての人を必ず絶対の幸福にしてみせる、と約束しておられます。
絶対の幸福とは、絶対に崩れない、捨てられない幸福のことです。

東京の高島平や千葉の常盤平など、都心近郊の団地として開発され、かつては憧れの的だったエリアが、30年を経た今、子供は皆巣立ち、独り暮らしの年配者が増え、孤独死の温床になっているといいます。
身寄りがなく起居もままならぬからと、役所を介して入居した老人ホームが悪質業者で、悲惨な生活を強いられている高齢者の実態が、NHKの番組でも紹介されていました。

わずか八畳間に男女の区別なく三人押し込められ、風呂にも入れず、食事は一日たったの200円。
入居者の生活保護費を狙い、介護報酬を国から取って、経費は極限まで切り詰め儲けを出す悪質ぶりには、ア然としました。

ある男性は「まるで、金を払って入る、現代の姥捨て山ですよ」と涙ぐむ。

家やアパートを引き払っているから、出るに出られない。
「身寄りがない、いられるだけでよい」という弱味につけ込む悪どい業者、それを把握せず仲介していた行政の欠陥が、浮き彫りにされていました。

死に物狂いで働き、日本の高度経済成長を支え、家族を養ってきたのに、その家族を失い、頼みの綱の国にも裏切られた悲嘆は、想像に余りあります。
会社に捨てられ、友人も去って、才能は枯渇、体力も気力も萎えてゆく。
オギャッとこの世に生まれ落ちてより、努力してかき集めてきたものが、年とともに奪われていく。
最後、死んでいく時には、丸裸でこの世を去っていかねばなりません。
これが人生というものならば、一体どこに、生きる喜びがあるでしょうか。何をしに、この世に出てきたのでしょうか。

「火宅(かたく)無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し」(歎異抄)

やがて必ず「捨てられる」ものしか知らず、薄氷を踏む不安で毎日を送っている私たちをご覧になって、阿弥陀如来は、「すべての人を、絶対に裏切られることのない、大安心の身にしてやりたい」と、無上の願いを起こされたのです。
何と有り難いことではありませんか。

本願に誓われている「信楽」とは、その絶対不変の幸福のことであり、『歎異抄』にはこれを「摂取不捨の利益」といわれているのです。

阿弥陀仏のお約束なされた内容とは?

Posted on 4月 12th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏のなされたお約束については、以前、簡単に話をしましたが、もっと詳しく解説しましょう。

阿弥陀仏は、「すべての人」と、どんな約束をなされているのでしょうか。
大事なのは、約束の内容です。金銭の貸借で言えば、金額に当たります。

阿弥陀仏の本願は漢字36文字で誓われています(浄土真宗のお経で、一番大切な大無量寿経にあります)。
その中に、阿弥陀仏はすべての人を「信楽」にする、と誓われているのです。

『歎異抄』には「信楽」を「摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)」と言われています。
「摂取不捨」とは、阿弥陀仏が私たちを「ガチッと摂め取って、絶対に捨てられない」こと。
「利益」は幸福のことですから、「摂取不捨の利益」とは、現代の言葉で「絶対の幸福」といえるでしょう。

この世は無常、いつどうなるか分からない世界です。
終身雇用で安泰と思っていたのに、突然のリストラ。
やっと決まった内定が、一方的に取り消し。
一家団欒の喜びが、愛児の事故死で涙の日々に。
恋人に振られたショックで自殺する人もいます。
健康が取り柄だったのに、末期ガンの宣告。
かつて賞賛を浴びた才能が衰えて泣く人。

これらは皆、信じていたものに「捨てられた」苦悩でしょう。
次回、具体的な事例も交えて、もう少し詳しく話をしましょう。

阿弥陀仏の本願を伝えることが釈迦の使命

Posted on 3月 17th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは, 阿弥陀仏の本願を伝えた方々 | コメントは受け付けていません。

お釈迦さまの説かれた仏教は、阿弥陀仏の本願一つを教えられたものです。
そのことについては、これまでの内容でお話してきました。

なぜ阿弥陀仏の本願一つなのか?

これは、阿弥陀仏とお釈迦さまの関係でもハッキリわかることです。
阿弥陀仏とお釈迦さまは、例えて言うなら、師弟の関係にあります。

阿弥陀仏を師匠とすれば、お釈迦さまは弟子にあたります。

弟子の使命は、先生の御心を正確に、一人でも多くの人にお伝えすること以外にありませんから、弟子であるお釈迦さまも45年間、自分の師である阿弥陀如来の本当に願っていられる御心、阿弥陀仏の本願以外、教えてゆかれませんでした。

親鸞聖人の「唯説弥陀本願海」(唯、阿弥陀仏の本願一つを説かれるためであった)の断言にうなずかずにおれません。

「仏教」とは、弟子であるお釈迦さまが、先生の弥陀如来の本当に願っていられる御心一つ、生涯教えてゆかれた教えであることが、お分かりになると思います。
お釈迦さまが、阿弥陀如来の本願一つを明らかになされたように、親鸞聖人90年の生涯も、阿弥陀仏の本願以外には教えられたことはありませんでした。

そして、親鸞聖人の教えていかれたことを、今日、そのままお話しされる高森顕徹先生もまた、阿弥陀仏の本願一つを説いておられます。

阿弥陀仏の本願の「本願」とは?

Posted on 2月 20th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏の本願一つを教えられたのが仏教であることをお話ししています。

次に「本願」について、解説しましょう。
「本願」とは「誓願」とも言われるように「約束」のことです。

「阿弥陀仏の本願」とは、「本師本仏の阿弥陀仏がなされているお約束」をいうのです。
では、阿弥陀仏は、どんな約束をされているのでしょうか。

浄土真宗のお経には、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の3つがありますが、中でも最も大切な大無量寿経の中に漢字36文字で誓われているのが、阿弥陀仏の本願です。
分かりやすく今日の言葉で表現すると、

すべての人を
必ず助ける
絶対の幸福に

というお約束です。

「約束」には必ず相手があります。
相手のない約束はありません。

阿弥陀仏は約束の相手を、本願に「十方衆生」と仰有っています。

「十方」とは、仏教で大宇宙のこと。「衆生」とは、生きとし生けるものすべて。
私たちは人間ですから、「十方衆生」とは、「すべての人」ということです。この中に入らない人は一人もいません。

「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」(歎異抄)

とも言われているとおり、男も女も、老いも若きも、差別なく救うのが阿弥陀仏の本願です。
キリスト教やイスラム教を信じている人も、無宗教の人も、日本人もアメリカ人もフランス人もドイツ人も、健常者も障害者も、あらゆる人が、阿弥陀仏の本願の対象なのです。

親鸞会の法話会で、高森顕徹先生から、毎回のようにお話がありますが、非常に大切なところなので、何度確認してもしすぎることはありません。

仏教を説かれたお釈迦さまと阿弥陀仏の関係は?

Posted on 1月 16th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは, 阿弥陀仏の本願を伝えた方々 | コメントは受け付けていません。

お釈迦さまは、阿弥陀仏の本願一つを教えていかれたことを、前回、紹介しました。

仏教を説かれたお釈迦様も、阿弥陀仏という仏さまも、共に仏さまですが、世間一般では、レッテルが違うだけで、同じ仏だろう、と思われているようです。
しかし、お釈迦さまと阿弥陀仏とはまったく違う仏さま。その違いを知らないと、仏教はどれだけ聞いてもわかりません。

お釈迦さまと阿弥陀如来には、どのような関係があるのでしょうか?
今回は、そのことについてお話ししましょう。

お釈迦さまは、今から約2600年前、インドで活躍なされた方です。
お釈迦さまが、35歳で仏という最高の覚りを開かれてから、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、教えていかれたみ教えを、今日、仏教といわれます。
地球上でただお一人、仏の覚りを開かれた方ですから、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われます。

そのお釈迦さまが、「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」と、私たちに教えて下されたのが、阿弥陀如来といわれる仏様です。
阿弥陀如来と釈迦如来(お釈迦さま)との関係について、蓮如上人は、『御文章』に次のように仰っています。

「ここに弥陀如来と申すは、
三世十方の諸仏の本師・本仏なり」

お釈迦さまは、地球上では唯一の仏さまですが、大宇宙には地球のようなものが数え切れないほどあり、無数の仏がましますと説かれています。
それらの仏を「三世十方の諸仏」と言われているのです。

有名なのは、大日如来とか、薬師如来、奈良の大仏はビルシャナ如来といわれる仏ですが、それらも皆、十方諸仏の一人です。

本師本仏とは、師匠であり先生ということですから、大宇宙の仏方の先生ということ。
これはお釈迦さまが説かれたことですが、親鸞聖人も明らかにされ、蓮如上人も仰っているのです。

弥陀如来は、十方諸仏の先生であるということは、大宇宙の仏方はみな阿弥陀仏のお弟子ということです。
地球のお釈迦さまも、十方諸仏の一人ですから、阿弥陀如来と釈迦如来の関係は、師匠と弟子、弥陀如来を先生とするなら、お釈迦さまは生徒、ということになります。

お釈迦さまだけでなく、大宇宙のすべての仏方は、阿弥陀仏のことを「偉大な仏様だ、尊い仏様だ、我らの先生だ」と讃め称えて、手を合わせ拝まれているのです。
親鸞聖人も、阿弥陀如来のことを無上仏、「最高の仏さま」と仰がれています。