古来、阿弥陀仏の「阿弥陀」には、二種の解釈があります。一つは「アミダバハ」といって光明無量の智慧と訳し、もう一つは「アミダユス」といって寿命無量の慈悲と訳されます。いわゆる阿弥陀仏の二大お徳「光明無量」と「寿命無量」ですが、人格化して右手をあげた「そのまま来いよ」の招喚のお姿となり、左手を下げて「堕しはせぬぞ」の摂取のお姿となりました。
まず、無量光についてですが、阿弥陀仏の広大な威徳を讃嘆したものに「十二光仏」といわれるものがあります。『大無量寿経』には、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり。この故に無量寿仏、無辺光仏、無碍光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏と号けたてまつる。それ衆生ありて、この光に遇う者は三垢消滅して身意柔軟に、歓喜踊躍して善心生ず(中略)われ無量寿仏の光明威神の巍々とし殊妙なるを説かんに昼夜一劫すともなお未だ尽くすこと能わじ」と、十二光仏を列挙されて讃仰し、お釈迦さまにして、なお説きつくすことができないお力であると説かれています。
親鸞聖人は、これを『教行信証』真仏土巻に引用して真実の阿弥陀仏を荘厳され、『讃阿弥陀仏和讃』にもあらわされ、私たちが朝夕親しんでいる『正信偈』にも讃嘆されていることは、皆さんもご承知のとおりです。蓮如上人の『正信偈大意』に、これをうかがってみましょう。
「無量光仏というは利益の長遠なることをあらわす。過現未来にわたりて、その限量なし、かずとしてさらにひとしきかずなきが故なり。無辺光仏というは照用の広大なる徳をあらわす。十方世界をつくしてさらに辺際なし、縁としててらさずということなきが故なり。無碍光仏というは神光の障碍なき相をあらわす。人法としてよくさふることなきが故なり。碍において内外の二障あり。外障というは山河大地雲霧煙霞等あり。内障というは貪瞋癡慢等なり。光雲無碍如虚空の徳あれば、もろもろの内障にさえられず、かるが故に天親菩薩は尽十方無碍光如来とほめたまえり、無対光仏というは、光としてこれに対すべきものなし、もろもろの菩薩の及ぶところにあらざるが故なり。炎王光仏というは、または光炎王仏と号す。光明自在にして無上なるが故なり。大経に猶如火王焼一切煩悩薪故と説けるはこの光の徳を嘆ずるなり。火をもてたきぎを焼くにつくさずということなきが如く、光明の智火をもて煩悩のたきぎを焼くに、さらに滅せずということなし、三塗黒闇の衆生も光照をこうむり解脱をうるはこの光の益なり。清淨光仏というは無貪の善根より生ず。かるが故にこの光をもて衆生の貪欲を治するなり。歓喜光仏というは無瞋の善根より生ず。かるが故にこの光をもて、衆生の瞋恚を滅するなり。智慧光仏というは無痴の善根より生ず。かるが故に、この光をもて無明の闇を破するなり。不断光仏というは一切の時にときとして照らさずということなし、三世常恒にして照益をなすが故なり。難思光仏というは神光の相をはなれてなづくべきところなし、はるかに言語の境界にこえたるが故なり。こころもてはかるべからざれば難思光仏といい、言葉をもて説くべからざれば無称光仏と号す。『無量寿如来会』には難思光仏をば不可思議光となづけ、無称光仏をば不可称量光といえり。超日月光仏というは日月はただ四天下を照らして、かみ上天におよばず、しも地獄に至らず仏光はあまねく八方上下を照らして障碍するところなし、かるが故に日月にこえたり」
十二光いずれも阿弥陀仏の異名となっていますから、阿弥陀なるものは光明であることは明瞭です。