阿弥陀仏を「自性唯心」的に考えるのは、華厳、天台、真言、禅宗等の諸大乗や一切の自力宗の人たちです。「自性」とは、自己の本性が阿弥陀仏である。我々の外に阿弥陀仏はない、ということで、「唯心」とは、我々の心が浄土であり、我々の心を離れて外に浄土があると思うのは迷いだ、という考え方です。
このような考え方の根っこは、「自己の本性は法爾の仏性である。ただそれが久遠以来の迷執の錆のために仏性の鏡面が曇っているけれども、錆の底には本来の玲瓏たる仏性の光は輝いているのだから、煩悩の錆そのものも清浄な仏性とはなれたものではなく、同一のものである。そこにこそ、煩悩即菩提、生死即涅槃の真理が横たわっているのだ。我々はこの真理を自覚し、体得さえすればよい。一切の諸仏も各自、固有の仏性を開発したものである。我々もこの仏性を磨き出すことに努力し、真の仏性を開顕した時が無上の証果を得たときである」という自力主義でしょう。
親鸞聖人は、かかる考え方を排斥され、『教行信証』信巻別序に、「然るに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し」と述べられ、このような説は、浄土の真証を貶しているのだ、と批判されています。先日、親鸞会の知人から教えてもらいましたが、最近お東で配付されたリーフレットにも、このお言葉が掲載されていたそうですね。
では、親鸞聖人の拝まれた阿弥陀仏とは、いかなる仏さまであったのでしょうか。