阿弥陀仏の救いは現在

Posted on 11月 25th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは | コメントは受け付けていません。

『正信偈』の冒頭二行は

「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ、親鸞は阿弥陀仏に助けられたぞ」

と同じことを二度繰り返しておられるお言葉であること、そこにはどれだけ言っても言い足りない、弥陀に救われた喜びが表されていることを、みてきました。

では、この『正信偈』の二行から分かることは何でしょうか。
まず、弥陀の救いは死後ではない、ということでしょう。いうまでもなく親鸞聖人は生きておられる時に「親鸞、救われたぞ」と書かれているのですから、「死んだらお助け」でないことは明らかです。
また、弥陀の救いはハッキリする、ということも分かります。ハッキリしなければハッキリ書けないからです。ハッキリ弥陀に救われられた聖人だからこそ、「親鸞は救われた」と、ハッキリ書かれた。
そしてもちろん、ほかの仏や、人間の力で救われるのではなく、まったく阿弥陀仏のお力によって救われるということも分かりますね。

さて、そのように弥陀に救われたことを「信心獲得」といわれます。信心と聞くと世間では「いわしの頭も信心から」といって、何かを信じていれば、その人の信心だといわれます。そして「もっと信心しなさい」「信心が足りない」というような言い方をしますね。ところが信心のあとに「獲得」とあります。信心獲得。これは親鸞聖人の教えにしかない言い方です。蓮如上人も『御文章』のいたるところに、「信を獲る」と書かれていますが、「信心する」という言い方は絶対にありません。浄土真宗に「信心する」という言葉はありえない。逆に浄土真宗以外の信心に「獲得」という言葉はありえない。

「信心する」と「信を獲る」。このわずかな言葉の違いに大変な距離があることを、敏感な方なら感じ取られるでしょう。果たして信心獲得とは、阿弥陀仏に救われるとは、どんなことをいわれるのでしょうか。

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