阿弥陀仏と第十八の願

Posted on 12月 25th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

 信心獲得(阿弥陀仏に救われる)とはどんなことか。蓮如上人は、『御文章』五帖目五通に、次のように教えられています。
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」
 阿弥陀仏は、四十八の本願を建てられていますが、その中で弥陀が本心を誓われているのが十八番目の願、第十八願です。弥陀が「すべての人は極悪人である」と見抜かれた上で「〝南無阿弥陀仏〟を与えて、必ず絶対の幸福に救い摂る」と誓われているお約束が十八願です。『御文章』には、
「それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して」(御文章二帖目八通)
とあります。
 大宇宙の仏方も、何とか我々を助けたいと思われたが、あまりに罪悪が重く、救済を断念された。私たちは諸仏に見捨てられたのです。ちょうど病気で町医者に行ったところが、検査してみるととても重い。「うちでは治せない、大きな病院に行ってくれ」と言われ、大病院に行ったが「私の力では無理です」とやはり断られ、ついにすべての医者に見放されたようなもの。しかるに諸仏に捨てられた者ならなお、私が助けてみせる、と、ただお一人立ち上がってくだされたのが阿弥陀仏なのです。そして、すべての人を必ず絶対の幸福に救う、という無上の誓願を建立してくだされたのですね。信心獲得とは、その誓いどおりに現在ただ今、絶対の幸福に救い摂られて、「本願まことだった、本当だった」と知らされたことで、それを「第十八の願を心得る」といわれています。
 それは破闇満願の大功徳のある〝南無阿弥陀仏〟の名号を弥陀から丸もらいして、「無上甚深の功徳利益であった」とハッキリしたことですから、「南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」とも言われています。と、いいましても「南無阿弥陀仏」とは何ぞやと思われるかもしれません。阿弥陀仏が作られた名号について次に述べたいと思います。

阿弥陀仏の本願とは、どんなことなのか

Posted on 7月 10th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは, 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

浄土真宗親鸞会発行の高森顕徹先生の著書に「こんなことが知りたい」というシリーズ4巻の本があります。
その中から、いくつかの内容をピックアップして紹介しましょう。

[問]
私は余り仏法を聞いたことのない者ですが、病気になり今死ぬとどうなるのかと思うと、大変おそろしく思います。阿弥陀仏の本願とはどんなことでしょうか。

[答]
阿弥陀仏といわれる仏は宇宙最高の仏です。
原子物理学者でなければ小さい原子の世界は分からないのと同じように、仏の境界のことは仏智を諦得なされた仏でなければ分かりません。
この地球上で今日までに仏の境地に出られた方は、釈尊の外にはありません。
釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なしです。

その釈尊が、35歳の12月8日に成仏なされて80歳の2月15日に涅槃の雲にかくれられるまでの45年間に説かれた一切経の中には、大宇宙にまします数多くの仏の御名前が出ていますが、その中で一番多いのが阿弥陀仏の御名前です。
だから天台大師でさえ「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」と驚嘆したのです。

「諸仏の中の王なり」とか「最尊第一の仏、阿弥陀仏」とか、「諸仏の中の極尊なり」等、あげればキリがありませんが、何しろあらゆる仏の中の大統領にあたる無上の仏なのです。
大日如来や薬師如来や、釈迦如来なども、みな阿弥陀仏の弟子であり家来であり、使いです。

だから親鸞聖人は『和讃』に、

「久遠実成(くおんじつじょう)の阿弥陀仏、
五濁(ごじょく)の凡愚(ぼんぐ)をあわれみて、
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と示してぞ、
迦耶城(がやじょう)には応現(おうげん)する」

と言われたのです。

その阿弥陀仏を焼く創価学会などは、断じて仏教ではなくて、外道の親玉だということが分かるでしょう。

さて、その宇宙最高の阿弥陀仏がどんな本願をたてられたかとのお尋ねですが、本願ということは誓願ともいいまして、約束ということです。
どんな約束をわれわれとなされたのかと申しますと、あらゆる人々は不幸で苦しみ悩み続けている。
あればあるで苦しみ、なければないで苦しむ、所詮苦より離れ切れない、あわれな存在である私達を何とか助けてやりたい、という大慈悲心をおこされました。
そして「われを信じよ。どんな苦悩をもつ者でも、この世も未来も最高無上の幸福にしてみせる。若し、絶対の幸福に出来なかったら、仏の生命を捨てよう」と約束なさったのです。

この世も未来も、どんな苦悩を持つ者も平等に絶対の幸福を与えようという、とてつもない本願ですから『正信偈』には「無上殊勝の願を建立なされた」と親鸞聖人は仰有っておられます。
この大誓願を信ずる一念に、本願の通りに絶対の幸福になることが出来るのです。

(「こんなことが知りたい1 [16]より)

阿弥陀仏の「必ず絶対の幸福に生まれさせる」のご念力

Posted on 6月 7th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは, 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

絶対に色あせることも崩れることもない幸福が、絶対の幸福であり、歎異抄には摂取不捨の利益と教えられています。

しかし、そう聞くと私たちは、「摂取不捨の利益?そんなもの本当にあるの?」「絶対の幸福になんかなれるはずがない」などと、本願を疑います。
中には「絶対の幸福なんて夢物語、ユートピアだ」「脳内現象じゃないか」「どうせ特殊な宗教体験だろう、自分とは関係ない」と怪しむ人もありましょう。

そこで阿弥陀仏は、「十方衆生」のその疑いを晴らして、「絶対の幸福」に救い摂るために、「正覚」(仏の覚り)の命を懸けて誓われているお言葉が、
「若不生者(にゃくふしょうじゃ)不取正覚(ふしゅしょうがく)」(若し生まれずは、正覚を取らじ)
の8字です。

これは、阿弥陀仏の本願、漢字36文字の一節です。

「正覚」とは「仏の覚り」のことであり、仏覚は仏さまの命ですから、これは、
「もし『信楽(しんぎょう:絶対の幸福)』に生まれさせることができなければ、命を捨てる」
といわれているお言葉です。

阿弥陀仏が命を懸けて、私たちを「必ず絶対の幸福に救う」と誓われているのが、「若不生者(にゃくふしょうじゃ)の誓い」なのです。

卑近な例えで言うと、銀行でローンを組む際、こちらの返済能力を疑う相手の疑念を晴らすために、土地や建物を担保に入れるでしょう。

阿弥陀仏は私たちの、「本当に助かるのか」の疑心を晴らすために、自身の命を担保に、
「平生ただ今、必ず絶対の幸福に生まれさせる」
と誓われているのです。

このように、阿弥陀仏のお力で絶対の幸福に救われたことを、信心決定(しんじんけつじょう)とか、信心獲得(しんじんぎゃくとく)と言います。

この絶大な「若不生者のご念力」によって、平生の一念、疑心が晴れわたり、必ず「信楽」に生まれる時が来るのだよと、親鸞聖人は生涯、教え続けていかれたのです。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ
(親鸞聖人)

親鸞聖人が、どんなご生涯を送られた方か、親鸞聖人のお歌といって、親しみやすく歌で教えられたものがありますので、その歌を通じて学んでみられるのもよいですね。

阿弥陀仏のお約束の内容とは

Posted on 5月 11th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、すべての人を必ず絶対の幸福にしてみせる、と約束しておられます。
絶対の幸福とは、絶対に崩れない、捨てられない幸福のことです。

東京の高島平や千葉の常盤平など、都心近郊の団地として開発され、かつては憧れの的だったエリアが、30年を経た今、子供は皆巣立ち、独り暮らしの年配者が増え、孤独死の温床になっているといいます。
身寄りがなく起居もままならぬからと、役所を介して入居した老人ホームが悪質業者で、悲惨な生活を強いられている高齢者の実態が、NHKの番組でも紹介されていました。

わずか八畳間に男女の区別なく三人押し込められ、風呂にも入れず、食事は一日たったの200円。
入居者の生活保護費を狙い、介護報酬を国から取って、経費は極限まで切り詰め儲けを出す悪質ぶりには、ア然としました。

ある男性は「まるで、金を払って入る、現代の姥捨て山ですよ」と涙ぐむ。

家やアパートを引き払っているから、出るに出られない。
「身寄りがない、いられるだけでよい」という弱味につけ込む悪どい業者、それを把握せず仲介していた行政の欠陥が、浮き彫りにされていました。

死に物狂いで働き、日本の高度経済成長を支え、家族を養ってきたのに、その家族を失い、頼みの綱の国にも裏切られた悲嘆は、想像に余りあります。
会社に捨てられ、友人も去って、才能は枯渇、体力も気力も萎えてゆく。
オギャッとこの世に生まれ落ちてより、努力してかき集めてきたものが、年とともに奪われていく。
最後、死んでいく時には、丸裸でこの世を去っていかねばなりません。
これが人生というものならば、一体どこに、生きる喜びがあるでしょうか。何をしに、この世に出てきたのでしょうか。

「火宅(かたく)無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し」(歎異抄)

やがて必ず「捨てられる」ものしか知らず、薄氷を踏む不安で毎日を送っている私たちをご覧になって、阿弥陀如来は、「すべての人を、絶対に裏切られることのない、大安心の身にしてやりたい」と、無上の願いを起こされたのです。
何と有り難いことではありませんか。

本願に誓われている「信楽」とは、その絶対不変の幸福のことであり、『歎異抄』にはこれを「摂取不捨の利益」といわれているのです。

阿弥陀仏のお約束なされた内容とは?

Posted on 4月 12th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏のなされたお約束については、以前、簡単に話をしましたが、もっと詳しく解説しましょう。

阿弥陀仏は、「すべての人」と、どんな約束をなされているのでしょうか。
大事なのは、約束の内容です。金銭の貸借で言えば、金額に当たります。

阿弥陀仏の本願は漢字36文字で誓われています(浄土真宗のお経で、一番大切な大無量寿経にあります)。
その中に、阿弥陀仏はすべての人を「信楽」にする、と誓われているのです。

『歎異抄』には「信楽」を「摂取不捨(せっしゅふしゃ)の利益(りやく)」と言われています。
「摂取不捨」とは、阿弥陀仏が私たちを「ガチッと摂め取って、絶対に捨てられない」こと。
「利益」は幸福のことですから、「摂取不捨の利益」とは、現代の言葉で「絶対の幸福」といえるでしょう。

この世は無常、いつどうなるか分からない世界です。
終身雇用で安泰と思っていたのに、突然のリストラ。
やっと決まった内定が、一方的に取り消し。
一家団欒の喜びが、愛児の事故死で涙の日々に。
恋人に振られたショックで自殺する人もいます。
健康が取り柄だったのに、末期ガンの宣告。
かつて賞賛を浴びた才能が衰えて泣く人。

これらは皆、信じていたものに「捨てられた」苦悩でしょう。
次回、具体的な事例も交えて、もう少し詳しく話をしましょう。

阿弥陀仏の本願を伝えることが釈迦の使命

Posted on 3月 17th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは, 阿弥陀仏の本願を伝えた方々 | コメントは受け付けていません。

お釈迦さまの説かれた仏教は、阿弥陀仏の本願一つを教えられたものです。
そのことについては、これまでの内容でお話してきました。

なぜ阿弥陀仏の本願一つなのか?

これは、阿弥陀仏とお釈迦さまの関係でもハッキリわかることです。
阿弥陀仏とお釈迦さまは、例えて言うなら、師弟の関係にあります。

阿弥陀仏を師匠とすれば、お釈迦さまは弟子にあたります。

弟子の使命は、先生の御心を正確に、一人でも多くの人にお伝えすること以外にありませんから、弟子であるお釈迦さまも45年間、自分の師である阿弥陀如来の本当に願っていられる御心、阿弥陀仏の本願以外、教えてゆかれませんでした。

親鸞聖人の「唯説弥陀本願海」(唯、阿弥陀仏の本願一つを説かれるためであった)の断言にうなずかずにおれません。

「仏教」とは、弟子であるお釈迦さまが、先生の弥陀如来の本当に願っていられる御心一つ、生涯教えてゆかれた教えであることが、お分かりになると思います。
お釈迦さまが、阿弥陀如来の本願一つを明らかになされたように、親鸞聖人90年の生涯も、阿弥陀仏の本願以外には教えられたことはありませんでした。

そして、親鸞聖人の教えていかれたことを、今日、そのままお話しされる高森顕徹先生もまた、阿弥陀仏の本願一つを説いておられます。

阿弥陀仏の本願の「本願」とは?

Posted on 2月 20th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏の本願一つを教えられたのが仏教であることをお話ししています。

次に「本願」について、解説しましょう。
「本願」とは「誓願」とも言われるように「約束」のことです。

「阿弥陀仏の本願」とは、「本師本仏の阿弥陀仏がなされているお約束」をいうのです。
では、阿弥陀仏は、どんな約束をされているのでしょうか。

浄土真宗のお経には、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の3つがありますが、中でも最も大切な大無量寿経の中に漢字36文字で誓われているのが、阿弥陀仏の本願です。
分かりやすく今日の言葉で表現すると、

すべての人を
必ず助ける
絶対の幸福に

というお約束です。

「約束」には必ず相手があります。
相手のない約束はありません。

阿弥陀仏は約束の相手を、本願に「十方衆生」と仰有っています。

「十方」とは、仏教で大宇宙のこと。「衆生」とは、生きとし生けるものすべて。
私たちは人間ですから、「十方衆生」とは、「すべての人」ということです。この中に入らない人は一人もいません。

「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず」(歎異抄)

とも言われているとおり、男も女も、老いも若きも、差別なく救うのが阿弥陀仏の本願です。
キリスト教やイスラム教を信じている人も、無宗教の人も、日本人もアメリカ人もフランス人もドイツ人も、健常者も障害者も、あらゆる人が、阿弥陀仏の本願の対象なのです。

親鸞会の法話会で、高森顕徹先生から、毎回のようにお話がありますが、非常に大切なところなので、何度確認してもしすぎることはありません。

お経に説かれてあることは、阿弥陀仏の本願ただ一つ

Posted on 12月 10th, 2008 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは, 阿弥陀仏の本願を伝えた方々 | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏という仏さまは、仏教を説かれたお釈迦さまが私たちに教えて下された仏さまです。

そのお釈迦さまの説かれたことは、すべてお経に書き残されています。
では、お経には何が教えられているのか、7000巻余りのお経を、何度も読み破られた親鸞聖人の言葉に学んでみましょう。

「如来所以興出世
唯説弥陀本願海」

これは、親鸞聖人の書かれた正信偈の一節です。
(親鸞会発行の正信聖典ではP11に掲載されています)

「如来、世に興出したもう所以は、唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」
と読みます。

如来とは、仏と同じ意味の言葉です。ここでは、お釈迦さまのことを指します。
世に興出したもう所以は、と言われているのは、お釈迦さまがこの地球上にお出ましになられ、仏教を説かれた目的は、ということ。
「所以」とは、「目的」ということです。

「唯説」とは、唯一つのことを説かれたのだ、という親鸞聖人の断言です。

七千冊以上ものお経があって、45年間もお釈迦さまは教えを説かれたと聞けば、仏教にはいろいろのことが教えられているのだろう、と思うのも当然です。
しかし、七千冊余りもの仏典を何度も読まれた親鸞聖人は、「お釈迦さまの説かれたことは、たった一つのことなのだよ」と断言しておられます。
お経の99%を読んだ人でも、こんな断言は出来ません。あとの1%に、どんなことが説かれてあるのかわからないからです。

では、そのただ一つのこととは何であったのでしょう?

それは、「弥陀の本願」である、と正信偈に親鸞聖人は書いておられます。

弥陀の本願とは、阿弥陀仏の本願のことです。
「弥陀の本願」とは、「阿弥陀如来という仏さまが、本当に願っていられる御心」のことで、それは大変広く深いので海にたとえて「本願海」といわれています。

あれだけ膨大なお経に説かれてあることが、阿弥陀仏の本願ただ一つというのは驚きですね。
親鸞会では、そのお釈迦さまがただ一つ明らかにされた阿弥陀仏の本願について、高森顕徹先生が毎月の法話会で話をされています。

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