『大無量寿経』には、阿弥陀仏の本生から説き起こされています。過去久遠のいにしえ、錠光如来以下五十三仏の出世があり、その次に世自在王仏という方が出世された。時に、一人の国王があって、世自在王仏のもとでその説法を聞き、非常に感激して無上道心を起し、遂に出家して法蔵と名のられた。(これが阿弥陀仏の因位の法蔵菩薩です)
法蔵菩薩は、世自在王仏の前に進み出て、自らの広大な願心を述べ、衆生の生死勤苦の本を抜かしめたまえと、その方法を尋ねられた。世自在王仏は、その深広なる志願を知り、無数の浄土を覩見せしめられた。法蔵菩薩はそこで、五劫という長い間、思惟し、これら諸仏の浄土の精粋を選択し、一切に超えすぐれた浄土を建立せんと大願を発して、つぶさにそれを表白されました。それが、有名な四十八願といわれるものです。
これから法蔵菩薩が、不可思議兆載永劫の間、無量の徳行を行じ、それを円満して六字の名号を成就なされ、すべての志願を成就してついに阿弥陀仏となられ、西方十万億土の彼方に、安楽世界(極楽浄土)を建立されたのですが、阿弥陀仏は、だれのため、何のために五劫の思惟、兆載永劫のご修行をなされねばならなかったのでしょうか。
阿弥陀仏の本生から
阿弥陀仏は「本師本仏」
さて、浄土真宗では、阿弥陀仏を本師本仏として崇め、一切の諸仏の本仏であり、諸仏を統括される最高・最尊の仏の師匠である、という話の途中でした。
これを親鸞聖人は、『浄土和讃』に「久遠実成阿弥陀仏、五濁の凡愚をあわれみて、釈迦牟尼仏としめしてぞ、迦耶城には応現する」と仰っています。本師は弟子に対し、本仏は分身に対する言葉ですから、諸仏に具えておられる功徳の一切は、この阿弥陀仏におさめられています。ゆえに浄土真宗では、阿弥陀一仏を崇拝すれば、余仏余菩薩に帰依する功徳の一切を皆、その中に具足されるから、弥陀一仏以外に余仏余菩薩を崇拝しないのです。
これを蓮如上人は、『御文章』2帖目3通には、「十方諸仏の為には本師本仏なるが故に、阿弥陀一仏に帰したてまつれば、すなわち諸仏菩薩に帰する謂あるが故に、阿弥陀一体の中に諸仏菩薩は皆悉くこもれるなり」と教え、また2帖目9通には、「阿弥陀如来は三世諸仏の為には本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれを喜びたまわざるべきや」と説き、また2帖目8通には、「ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫、五障三従の女人をば、弥陀にかぎりて『われひとり助けん』という超世の大願を発して、われら一切衆生を平等に救わんと誓いたまいて、無上の誓願を発して、已に阿弥陀仏と成りましましけり」と述べられています。余談ですが、親鸞会発行の『御文章』は字が大きくて読みやすいですね。
阿弥陀仏と諸仏の関係
前回まで、阿弥陀仏の「アミダ」の意味について大まかに述べてみました。次に「本師本仏」ということについて、少し詳しく触れてみましよう。
「弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば」(御文章2帖目8通)
と教えられる通り、阿弥陀仏は三世十方の諸仏(大宇宙のあらゆる仏)の本師本仏であると説かれています。このように聞きますと、仏のさとりにランクがあるの?と思われる方があるかもしれません。そこで仏とは何かということから確認していきましょう。
仏とは「覚者(覚れる者)」ということで、しかもこの「覚り」には「自覚、覚他、覚行、窮満」の意味があるとされます。すなわち、自ら覚るとともに他人を覚らしめなければならず、その覚りの所作に欠けるところがなく、円満されたものでなければならない。いわゆる、自利利他満足されている方を申します。では、阿弥陀仏と諸仏はどう違うのでしょうか。
自覚とは、宇宙の真理を覚証された方をいいますが、迷いを重ね流転を続ける我々を哀れに思召して何とか救済しようと立ち上がってくださるのですから、仏の本意は自覚よりも、むしろ覚他にあるといえるでしょう。しかるに阿弥陀仏以外の諸仏は、その覚りは自覚のほうが主体で覚他が主になってはおりません。それに対して、阿弥陀仏のみは覚他を主として、その因位の願行もひとえに覚他の外にはありませんでした。ですから諸仏の覚りを説く時は、いずれもただ抽象的に真如の妙理に合った、いわゆる理知冥合の点ばかりを力説されますが、阿弥陀仏の覚りを説く時には、人格的に、その覚他のいかに広大深遠なるかが強調されるわけです。
阿弥陀仏の「アミダ」2
前回から、阿弥陀仏の「阿弥陀」の二種の解釈について記しています。もう一度、繰り返しますと、一つは「アミダバハ」といって光明無量の智慧と訳し、もう一つは「アミダユス」といって寿命無量の慈悲と訳されます。いわゆる阿弥陀仏の二大お徳「光明無量」と「寿命無量」ですね。
前回は、無量光について、阿弥陀仏の広大な威徳を讃嘆した「十二光仏」のお話をしていました。十二光はいずれも阿弥陀仏の異名となっていますから、阿弥陀とは光明であることは明らかでしょう。
「光明」は「智慧」を意味することは、『唯信鈔文意』などに、これも親鸞聖人が明示されています。そのご文を挙げてみましょう。
「阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧の形なりと知るべし」(唯信鈔文意)
また、阿弥陀を「不思議の仏智」とさえ呼ばれています。
このような実相を徹見する真実の智慧があれば、必ず真実の慈悲心が発動することを、『浄土論註』に曇鸞大師は、「実相を知るをもっての故に、則ち三界の虚妄の相を知る。衆生の虚妄を知れば則ち真実の慈悲生ずる」と説かれています。「真実の智慧は、必ず真実の慈悲心を発動する」。このフレーズは、覚えたいところですね。
さて次に、無量寿とは、文字の通り「量りなき寿命」ということで、仏の光明がいかに強力であっても、線香花火のように瞬時に消え失せるようなものでは、何にもなりませんから、それが無量寿に維持されればこそ、阿弥陀といわれるのだということですね。
ここまで、阿弥陀仏の二大お徳について大まかではありますが、説明しました。
阿弥陀仏の「アミダ」とは
古来、阿弥陀仏の「阿弥陀」には、二種の解釈があります。一つは「アミダバハ」といって光明無量の智慧と訳し、もう一つは「アミダユス」といって寿命無量の慈悲と訳されます。いわゆる阿弥陀仏の二大お徳「光明無量」と「寿命無量」ですが、人格化して右手をあげた「そのまま来いよ」の招喚のお姿となり、左手を下げて「堕しはせぬぞ」の摂取のお姿となりました。
まず、無量光についてですが、阿弥陀仏の広大な威徳を讃嘆したものに「十二光仏」といわれるものがあります。『大無量寿経』には、「無量寿仏の威神光明は、最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり。この故に無量寿仏、無辺光仏、無碍光仏、無対光仏、炎王光仏、清浄光仏、歓喜光仏、智慧光仏、不断光仏、難思光仏、無称光仏、超日月光仏と号けたてまつる。それ衆生ありて、この光に遇う者は三垢消滅して身意柔軟に、歓喜踊躍して善心生ず(中略)われ無量寿仏の光明威神の巍々とし殊妙なるを説かんに昼夜一劫すともなお未だ尽くすこと能わじ」と、十二光仏を列挙されて讃仰し、お釈迦さまにして、なお説きつくすことができないお力であると説かれています。
親鸞聖人は、これを『教行信証』真仏土巻に引用して真実の阿弥陀仏を荘厳され、『讃阿弥陀仏和讃』にもあらわされ、私たちが朝夕親しんでいる『正信偈』にも讃嘆されていることは、皆さんもご承知のとおりです。蓮如上人の『正信偈大意』に、これをうかがってみましょう。
「無量光仏というは利益の長遠なることをあらわす。過現未来にわたりて、その限量なし、かずとしてさらにひとしきかずなきが故なり。無辺光仏というは照用の広大なる徳をあらわす。十方世界をつくしてさらに辺際なし、縁としててらさずということなきが故なり。無碍光仏というは神光の障碍なき相をあらわす。人法としてよくさふることなきが故なり。碍において内外の二障あり。外障というは山河大地雲霧煙霞等あり。内障というは貪瞋癡慢等なり。光雲無碍如虚空の徳あれば、もろもろの内障にさえられず、かるが故に天親菩薩は尽十方無碍光如来とほめたまえり、無対光仏というは、光としてこれに対すべきものなし、もろもろの菩薩の及ぶところにあらざるが故なり。炎王光仏というは、または光炎王仏と号す。光明自在にして無上なるが故なり。大経に猶如火王焼一切煩悩薪故と説けるはこの光の徳を嘆ずるなり。火をもてたきぎを焼くにつくさずということなきが如く、光明の智火をもて煩悩のたきぎを焼くに、さらに滅せずということなし、三塗黒闇の衆生も光照をこうむり解脱をうるはこの光の益なり。清淨光仏というは無貪の善根より生ず。かるが故にこの光をもて衆生の貪欲を治するなり。歓喜光仏というは無瞋の善根より生ず。かるが故にこの光をもて、衆生の瞋恚を滅するなり。智慧光仏というは無痴の善根より生ず。かるが故に、この光をもて無明の闇を破するなり。不断光仏というは一切の時にときとして照らさずということなし、三世常恒にして照益をなすが故なり。難思光仏というは神光の相をはなれてなづくべきところなし、はるかに言語の境界にこえたるが故なり。こころもてはかるべからざれば難思光仏といい、言葉をもて説くべからざれば無称光仏と号す。『無量寿如来会』には難思光仏をば不可思議光となづけ、無称光仏をば不可称量光といえり。超日月光仏というは日月はただ四天下を照らして、かみ上天におよばず、しも地獄に至らず仏光はあまねく八方上下を照らして障碍するところなし、かるが故に日月にこえたり」
十二光いずれも阿弥陀仏の異名となっていますから、阿弥陀なるものは光明であることは明瞭です。
「阿弥陀仏とは」に聖人のお答え
親鸞聖人の拝まれた阿弥陀仏とはいかなる仏さまか、まず、『一念多念証文』でお聞きしてみましょう。
『一念多念証文』には、「一如宝海より形をあらわして法蔵菩薩となのりたまいて、無碍の誓をおこしたまうをたねとして、阿弥陀仏となりたまうが故に、『報身如来』と申すなり、これを『尽十方無碍光仏』と名づけたてまつれるなり、この如来を『南無不可思議光仏』とも申すなり、この如来を『方便法身』とは申すなり、『方便』と申すは、形をあらわし御名を示して衆生に知らしめたまうを申すなり、すなわち阿弥陀仏なり」と示されています。
また『唯信鈔文意』には、「しかれば、仏について二種の法身まします。一には法性法身と申す、二には方便法身と申す。『法性法身』と申すは、色もなし形もましまさず、しかれば心もおよばず語もたえたり。この一如より形をあらわして『方便法身』と申す、その御相に『法蔵比丘』となりたまいて、不可思議の四十八願を発しあらわしたまうなり」と述べられています。
今、真理としての仏、法性法身の弥陀は私たちには判りません。この法性法身の水が、大悲やるせなく衆生かわいいの風にゆられて顕現したまうのが、方便法身の波。すなわち真如の徳から、法蔵菩薩という姿になって本願をおこし、大行を修して阿弥陀如来という方便法身なる仏となられたというのが、聖人の味わわれた阿弥陀仏であることが知られます。
私の本性が阿弥陀仏なの?
阿弥陀仏を「自性唯心」的に考えるのは、華厳、天台、真言、禅宗等の諸大乗や一切の自力宗の人たちです。「自性」とは、自己の本性が阿弥陀仏である。我々の外に阿弥陀仏はない、ということで、「唯心」とは、我々の心が浄土であり、我々の心を離れて外に浄土があると思うのは迷いだ、という考え方です。
このような考え方の根っこは、「自己の本性は法爾の仏性である。ただそれが久遠以来の迷執の錆のために仏性の鏡面が曇っているけれども、錆の底には本来の玲瓏たる仏性の光は輝いているのだから、煩悩の錆そのものも清浄な仏性とはなれたものではなく、同一のものである。そこにこそ、煩悩即菩提、生死即涅槃の真理が横たわっているのだ。我々はこの真理を自覚し、体得さえすればよい。一切の諸仏も各自、固有の仏性を開発したものである。我々もこの仏性を磨き出すことに努力し、真の仏性を開顕した時が無上の証果を得たときである」という自力主義でしょう。
親鸞聖人は、かかる考え方を排斥され、『教行信証』信巻別序に、「然るに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し」と述べられ、このような説は、浄土の真証を貶しているのだ、と批判されています。先日、親鸞会の知人から教えてもらいましたが、最近お東で配付されたリーフレットにも、このお言葉が掲載されていたそうですね。
では、親鸞聖人の拝まれた阿弥陀仏とは、いかなる仏さまであったのでしょうか。
最も有名な仏が阿弥陀仏
前回は、阿弥陀仏の作られた「南無阿弥陀仏」とは何か、と話を進めましたが、少し急ぎすぎたようです。
三世の諸仏に捨てられた極悪人を「われひとり助けん」と立ち上がられた阿弥陀仏とは、どんな仏さまか、ということについて、もっといろいろな角度から、お話しすることにしましょう。
仏さまの中でも、最も知られている仏をあげるとすれば、まず阿弥陀仏でしょう。それほど阿弥陀仏のお名前は親しみ深いものになっています。先日、親鸞会の知人から教えてもらいましたが、かのオバマ大統領が来日した際も、「子供のころ、母親が鎌倉へ連れていってくれた。その時、何世紀もの間、平和と静寂の象徴であり続ける阿弥陀仏の仏像を見上げた」という内容のスピーチがあったそうですね。「……子供だった私は抹茶アイスクリームの方が関心あったが」と続くそうですが、これは余談。(ついでに脱線すると、映画「スター・ウオーズ」に登場するアミダラ姫の名前は阿弥陀仏に由来しているとも)
実際、お釈迦さまが一切経に、阿弥陀仏のことばかり説かれていることは、天台宗の僧も「諸経所讃多在弥陀」(諸経に讃ずるところ多く弥陀に在り)と驚いています。阿弥陀仏に関する所説は浄土系の経典に限らず、浄土諸宗ばかりでなく大乗の諸宗において、阿弥陀仏を説かない宗旨はほとんどない、といってもよいでしょう。
しかし、阿弥陀仏に対する説明は、仏教各宗において解釈を異にしており、これを大別すれば、聖道諸宗における理性を主とする解釈で、阿弥陀仏を自性唯心的なものとするものと、浄土諸宗の事相を主として、浄土の方角を指定して、その形状等を示して、今現に説法中の人格的仏と味わう二つになります。この点について次回、もう少し詳しくふれてみましょう。
阿弥陀仏の救いは現在
『正信偈』の冒頭二行は
「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ、親鸞は阿弥陀仏に助けられたぞ」
と同じことを二度繰り返しておられるお言葉であること、そこにはどれだけ言っても言い足りない、弥陀に救われた喜びが表されていることを、みてきました。
では、この『正信偈』の二行から分かることは何でしょうか。
まず、弥陀の救いは死後ではない、ということでしょう。いうまでもなく親鸞聖人は生きておられる時に「親鸞、救われたぞ」と書かれているのですから、「死んだらお助け」でないことは明らかです。
また、弥陀の救いはハッキリする、ということも分かります。ハッキリしなければハッキリ書けないからです。ハッキリ弥陀に救われられた聖人だからこそ、「親鸞は救われた」と、ハッキリ書かれた。
そしてもちろん、ほかの仏や、人間の力で救われるのではなく、まったく阿弥陀仏のお力によって救われるということも分かりますね。
さて、そのように弥陀に救われたことを「信心獲得」といわれます。信心と聞くと世間では「いわしの頭も信心から」といって、何かを信じていれば、その人の信心だといわれます。そして「もっと信心しなさい」「信心が足りない」というような言い方をしますね。ところが信心のあとに「獲得」とあります。信心獲得。これは親鸞聖人の教えにしかない言い方です。蓮如上人も『御文章』のいたるところに、「信を獲る」と書かれていますが、「信心する」という言い方は絶対にありません。浄土真宗に「信心する」という言葉はありえない。逆に浄土真宗以外の信心に「獲得」という言葉はありえない。
「信心する」と「信を獲る」。このわずかな言葉の違いに大変な距離があることを、敏感な方なら感じ取られるでしょう。果たして信心獲得とは、阿弥陀仏に救われるとは、どんなことをいわれるのでしょうか。
「阿弥陀仏に救われた」
前回、『正信偈』の冒頭「帰命無量寿如来 南無不可思議光」の「無量寿如来」も「不可思議光」も「阿弥陀仏」の別名であることをお話ししました。せっかくですから、この二行にどんなことが書かれているか、続けて述べてみましょう。
「帰命」と「南無」は同じ意味です。浄土真宗の方なら「南無というは帰命なり」という蓮如上人の『御文章』を聞かれたことがあると思います。「南無」は昔のインドの言葉、帰命は昔の中国の言葉です。仏教は、お釈迦さまがインドで説かれ、中国へ伝えられましたから、昔のインドの言葉や、中国の言葉が使われているのですね。
では「帰命」とか「南無」とはどんな意味でしょうか。分かりやすくいえば「救われた、助けられた」ということです。
ですから、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とは「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」と同じことを二度、繰り返されていることになります。
なぜ二度も、と思われるでしょうか。本当は二度くらいでない、弥陀に救われたうれしさには言わずにおれない、叫ばずにおれないという御心が、この二行にあふれているのですね。
さて、ここから分かることは何でしょうか。阿弥陀仏の救いとは、どんなものなのでしょうか。