阿弥陀仏の本願と名号(9)

Posted on 12月 2nd, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

前回は、本願と名号との関係について触れました。阿弥陀仏の本願には力があり、その願力は「南無阿弥陀仏」の名号のお力そのものでしたね。
親鸞聖人は、この「南無阿弥陀仏」を、生死の苦海におぼれ苦しむ私たちをすくいあげ、明るく楽しく浄土まで渡してくださる大きな船に例えて、「難度の海を度する大船」と主著『教行信証』の冒頭に、
「難思の弘誓は、難度の海を度する大船」(教行信証総序)
と仰せです。
また、蓮如上人は、
「南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」(御文章5帖目13通)
と「南無阿弥陀仏」の大功徳を讃嘆されています。「さのみ功能」とは、難度の海におぼれ苦しむすべての人を一念の瞬間に大船に乗せて、必ず極楽浄土まで渡してくださるお働きのこと。そんなすごい力が六字にあるとは、とても思えないだろう、ということですね。しかし事実は、南無阿弥陀仏には、私たちを絶対の幸福に救う、とてつもないお働きがあるのです。一体、南無阿弥陀仏のどこにそんなすごいお力があるのでしょうか。それについては、次回「御正忌の御文章」を通して、お聞きしたいと思います。

阿弥陀仏の本願と名号(8)

Posted on 11月 11th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のことですが、本願と名号とは、どのような関係なのでしょう。
阿弥陀仏は、「すべての人を絶対の幸福に救う」という本願を果たすために、兆載永劫という気の遠くなるほどの長い間、全身全霊、ご修行に打ち込まれて、「本願の通り救う力」のある「南無阿弥陀仏」の名号を成就してくださいました。
阿弥陀仏の本願には力があり、その願力は「南無阿弥陀仏」の名号そのものなのです。
ゆえに覚如上人は
「本願や名号、名号や本願」(執持鈔)
と喝破され、蓮如上人は、
「この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり(御文章5帖目13通)
と、「南無阿弥陀仏」の大功徳を讃嘆されています。
「本願に救われる」とは、この「南無阿弥陀仏」のいわれを「聞く一つ」で絶対の幸福になるということ。だから親鸞聖人も蓮如上人も、「仏法は聴聞に極まる」と教導されています。
また、木像・絵像によって救われるのではなく、「南無阿弥陀仏」の名号によって救われるのですから、根本に尊ぶべきは名号であると、親鸞聖人は、一生涯、御名号本尊を貫かれ、蓮如上人は懇切に、当流(親鸞聖人の教え)と他流を比較されて、こうおっしゃっています。
「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは木像』というなり。
当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」(御一代記聞書)

阿弥陀仏の本願と名号(7)

Posted on 10月 29th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

私たちが正定聚の絶対の幸福に救われるのは、南無阿弥陀仏の名号のお働きによることを、親鸞聖人は「本願の名号は正定の業なり」(正信偈)と明らかにされています。
ところが「生きている今、正定聚不退転(絶対の幸福)になれる」と聞いても、あまりにもすごい救いなのでピンとこない私たちのために、親鸞聖人は、弥勒菩薩と比較して、あの弥勒菩薩より幸せになれるのだよ、と教えてくださっていることを前回、『教行信証』のお言葉で学びました。
阿弥陀仏の本願に救われた人は、一念に51段高とびさせられ正定聚不退転、弥勒菩薩と肩を並べる身になり、それだけではなく、56億7千万年後でなければ仏覚に到達できぬ弥勒を尻目に、この世の命終わると同時に、無上覚(仏のさとり)を超証するのだ、との宣言です。
このことをご和讃には、次のように仰っています。
真実信心うるゆえに
すなわち定聚にいりぬれば
補処の弥勒におなじくて
無上覚をさとるなり  (正像末和讃)
補処とは、等覚(51段目)のこと。「弥陀に救われ、真実信心を頂いた一念に正定聚の位に入って、弥勒菩薩と同格になる。そのうえ、死ねば必ず浄土へ往って、弥勒より先に仏のさとり(無上覚)を開くのだ。これほどの幸せがあろうか」
親鸞聖人は、等覚(補処)の弥勒菩薩と比較されて、「弥陀の救い」がいかにすごいか訴えられ、「早くこの親鸞と、同じ幸せな身になってくれよ」と念じておられるのですね。

阿弥陀仏の本願と名号(6)

Posted on 9月 17th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

私たちが正定聚の絶対の幸福に救われるのは、南無阿弥陀仏の名号のお働きによることを明らかにされたのが「本願の名号は正定の業なり」(正信偈)のお言葉です。
ところが私たちは「生きている今、正定聚不退転(絶対の幸福)になれる」と聞いても、あまりにもすごい救いなのでピンときません。そんな私たちに親鸞聖人は、あの弥勒菩薩より幸せになれるのだよ、と次のように教えてくださっています。
「真に知んぬ。
弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、
龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」(教行信証信巻)
(本当にそうだったなあ!あの弥勒菩薩と今、同格になれたのだ。全く弥陀の誓願不思議としかいいようがない。しかも弥勒は56億7千万年後でなければ、仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は今生終わると同時に、浄土へ往って仏のさとりが得られるのだ)
「真に知んぬ」とは「明らかに知らされた」聖人の驚嘆です。「私はそう思う」「そんな感じがする」「間違いなかろう」というような曖昧な臆測や想像ではありません。では、何がハッキリ知らされたと、聖人は仰っているのでしょうか。
「弥勒大士」とは、あと1段で仏覚という、51段のさとり(等覚)を得ている弥勒菩薩のことです。「菩薩」とは「仏のさとりを得ようと努力している人」のこと。菩薩の最高位が51段の等覚です。弥勒菩薩は、その等覚のさとりを開いていることを、「弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に」と言われています。
弥勒は、大変優れた菩薩として有名で、世間には「弥勒さまに助けてもらおう」と手を合わせている「弥勒信仰」も少なくありません。ところがその弥勒菩薩でさえ、あと1段上って「仏覚」を開くまでには56億7千万年かかると、お釈迦さまは説かれています。
そのことを聖人は「龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし」と言われています。「龍華三会の暁」とは56億7千万年後のこと。「無上覚位」とは仏のさとりのことです。菩薩の最高位である弥勒でも、仏覚を開くまでには、気の遠くなる長期間かかることを示されたうえで聖人は、「しかし弥陀に救われた人は、こうだ」と、驚くべきことを断言されています。
「念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、
臨終一念の夕、大般涅槃を超証す」
「念仏の衆生」とは「弥陀に救い摂られた人」であり、聖人ご自身も「念仏の衆生」です。「横超の金剛心を窮むる」とは「弥勒と同格の正定聚の菩薩に救われた」こと。弥勒と肩を並べる身になったのでも驚きですが、聖人はさらに56億7千万年後でなければ仏覚に到達できぬ弥勒を尻目に、阿弥陀仏の本願に救われた念仏者は、この世の命終わると同時に無上覚(仏のさとり)を超証するのだ、と宣言なされているのです。
このことを、ご和讃にも教えられていますので、次回お聞きしてみましょう。

阿弥陀仏の本願と名号(5)

Posted on 8月 10th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願によって創られた南無阿弥陀仏の名号には、すべての人を「正定聚(正定)にする働き(業)がある」と『正信偈』に次のように明示されています。
「本願の名号は正定の業なり」
ここで「正定」とは「正定聚」の略で、今日の言葉でいえば「絶対の幸福」です。「業」とは「働き」という意味ですから、阿弥陀仏の本願によって創られた名号には、すべての人を絶対の幸福(正定)にする働き(業)がある、と聖人は明らかにされているのです。
では、「正定聚」とは、どんなことなのでしょうか。「正定聚」は、さとりの位の一つで、一口に「さとり」といっても、低いさとりから高いさとりまで、全部で52の位があり、これを「さとりの52位」といわれます。ちょうど「力士」といっても、下は序ノ口から、上は大関、横綱まで、いろいろの位があるようなものです。
52のさとりの位にも、それぞれ名前がついており、最も高い位を「仏覚」(仏のさとり)といわれます。これより高いさとりはありませんから「無上覚」ともいわれます。その最高無上の仏覚まで到達された方だけを「仏」とか「仏さま」といわれるのです。
「さとり」の位が一段違うと、人間と虫けらほど違うといわれます。ハチやカエルに、テレビやパソコンの仕組みを説明しようとしても不可能なのは、人間とは全く境界が違うからです。同様に、凡夫(人間)と52段の仏さまでは、全く境界が異なります。
経典には、この52のさとりの階梯をのぼって、仏のさとりを得るには、三大阿僧祇劫という気の遠くなるような長期の修行が必要と説かれています。その道を求める難しさは、「面壁九年」といって、9年間、壁に向かって座禅を続け、手足をなくした達磨大師が30段前後しかさとれなかった、といわれることからも分かります。
「正定聚」は「正定聚不退転」ともいわれ、さとりの51段に相当する位をいいます。いつ死んでも間違いなく(正しく)仏になれることに定まった人たち(聚)ですから「正定聚」といわれるのです。52段のさとりの中で、40段までは油断すると退転する(さとりが退く)「退転位」、41段から上は、何があっても退転しない「不退転位」。ゆえに「正定聚」の身に救われた人は、いつ死んでも浄土へ往って仏になれることがハッキリし、何があっても変わらぬ「絶対の幸福」になれるのです。
「阿弥陀仏の本願によって創られた名号には、すべての人を絶対の幸福(正定)にする働き(業)がある」(本願名号正定業)。そのすごさを、続けてみてまいりましょう。

阿弥陀仏の本願と名号(4)

Posted on 7月 13th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

『正信偈』の「本願の名号は正定の業なり」について、お話ししております。
「本願」とは「阿弥陀仏の本願」のこと。「どんな人も、平生に絶対の幸福に救い摂り、必ず極楽浄土へ生まれさせる」という本師本仏の阿弥陀仏の命を懸けたお約束です。
「名号」とは「南無阿弥陀仏」の六字のこと。この「南無阿弥陀仏」の名号は、阿弥陀仏が自らの誓いを果たすために、兆載永劫のご修行をなされて完成されたものです。名号をつくられたお方は阿弥陀仏であり、その設計図が阿弥陀仏の本願なのですね。ゆえにここで聖人は「本願の名号」(阿弥陀仏の本願によって創られた南無阿弥陀仏の名号)と言われているのです。
肉体の病に例えれば、難病で苦しむ患者を何とか救ってやりたい、という悲願を起こした医師が、長年の考察と研究努力の末、ついにその病を治す力のある薬を完成されたようなもの、ということもお話ししてまいりました。
では、その完成したお薬には、どんな働き、効能があるのか。親鸞聖人はズバリ「本願の名号は正定の業なり」と、阿弥陀仏の本願によって創られた南無阿弥陀仏の名号には、すべての人を「正定聚(正定)にする働き(業)がある」と明示されています。これは、どんなことかが、これからのテーマです。

阿弥陀仏の本願と名号(3)

Posted on 6月 17th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

親鸞聖人は『正信偈』に「本願の名号は正定の業なり」と教えられています。
最初の「本願」とは「阿弥陀仏の本願」のこと。大宇宙のすべての仏を仏にならしめた本師本仏の阿弥陀仏のなされているお約束です。大宇宙の仏方にもそれぞれ本願がありますが、「本願」といえば「阿弥陀仏の本願」のことになるのは、弥陀の本願が他の仏の本願にズバ抜けて尊く素晴らしいからです。そのお約束とは「どんな人をも、平生に絶対の幸福に救い摂り、必ず極楽浄土へ生まれさせる」という命を懸けたお誓いです。
次に「名号」とは、阿弥陀仏が、自らの約束を果たされるために、兆載永劫のご修行をなされて完成してくだされた「南無阿弥陀仏」の六字のことです。これを親鸞聖人は『正信偈』に「本願の名号」(阿弥陀仏の本願によって創られた南無阿弥陀仏の名号)と言われているのです。
他の仏にはとても創ることのできない威神功徳不可思議の名号ですから、すべての仏が「南無阿弥陀仏」の偉大なお力を絶賛されています。
親鸞聖人は「不可称不可説不可思議の功徳」と仰り、蓮如上人はまた、この「南無阿弥陀仏」を「真実の宝」と言われています。
「当流の真実の宝というは南無阿弥陀仏」(御一代記聞書)
この世に宝といわれるものはいろいろあるでしょう。高価な宝石や金塊、かわいいわが子や、彼氏彼女からのプレゼントを宝物にしている人もあるかもしれません。宝とは、その人に喜びや満足を与えてくれるもの。ところが、その大事な宝も、いつまでも私に幸福感を与えてくれるものではありません。たとえどんなに大事にしている宝も、いよいよ死んでいく時は、すべてこの世に置いていかねばなりません。私たちが人間に生まれてきたのは、そんな宝を獲得するためではないのだよ、と仏教では教えられます。
人間に生まれてきた目的は、真実の宝「南無阿弥陀仏」を獲得する一つ。真実の宝とは三世十方を貫き、変わらぬ無上の喜びを与える宝。その真実の宝「南無阿弥陀仏」の大功徳を与えて、絶対の幸福にするために釈迦は仏教を説かれたのであり、一切の仏教書の目的もそれ以外にないことを蓮如上人は「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」(御文章5帖)と懇ろに教えられています。

阿弥陀仏の本願と名号(2)

Posted on 5月 30th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

果てしない生死の苦海に溺れる古今東西すべての人は、そのまま人生終われば、死後もまた暗黒の世界に入っていかねばならぬことを、お釈迦さまは「従苦入苦 従冥入冥(苦より苦に入り冥より冥に入る)」と『大無量寿経』に説かれています。未来永劫、苦から離れ切れぬ私たちを哀れに思われた大慈大悲の阿弥陀仏は「どんな人も必ず絶対の幸福に助ける」という熱い願いを起こされました。これが「阿弥陀仏の本願」であります。
その誓いを果たすために阿弥陀仏は、不可思議兆載永劫のご修行をなされて、色も形もない広大無辺の大慈悲心を、私たちが受け取れる「名号(南無阿弥陀仏)」として完成されたのだと、お釈迦さま、親鸞聖人は教えられています。
ですから南無阿弥陀仏の名号には「どんな人の心の闇も破壊し、絶対の幸福に救う」不可称、不可説、不可思議のお力があるのです。この南無阿弥陀仏の名号の働きを、蓮如上人は次のように『御文章』に教示されています。
「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」(5帖目13通)
〈南無阿弥陀仏といえば、字数はわずか六字であるから、そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう。だがそれは猫に小判、豚に真珠といわれるように、南無阿弥陀仏(名号)の真価を知る知恵がないからである。本当は南無阿弥陀仏の六字の中には、どんな人をも無上の幸福にする、釈迦も説き尽くせなかった計り知れないお力があるのである〉
親鸞聖人は、この南無阿弥陀仏の名号を「苦しみの難度海を、明るく楽しく渡す大船」に例えられ、「大悲の願船」とも仰っています。この「南無阿弥陀仏」の大船に、平生の一念、不可思議の本願力によって乗せていただいたならば、罪業深重、煩悩具足の身は変わらぬまま、大安心・大満足の絶対の幸福に生かされ、来世は必ず無量光明土(阿弥陀仏の極楽浄土)へ往ける身になるのですね。

阿弥陀仏の本願と名号

Posted on 4月 28th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

大宇宙の仏方に見放された罪悪深重の私たちを、「われひとり助けん」と奮い立たれた阿弥陀仏は、「どんな人をも必ず絶対の幸福に助ける」という本願を建てられました。それは諸仏にズバ抜けた阿弥陀仏の絶大なお力なればこそなしうる大宇宙に二つとない超世のお約束であり、無上殊勝の本願であることを学んできました。
そこで、阿弥陀仏は私たちをどのようにして絶対の幸福に救うと誓われているのでしょうか。阿弥陀仏が自らの誓いを果たすためにつくられたのが、「南無阿弥陀仏」の名号であります。弥陀は極悪の十方衆生に「私のつくった名号(南無阿弥陀仏)を与えて救う」と誓われているのです。
阿弥陀仏が十方衆生を救済するために名号を完成された経緯は、肉体の病でいえば、死に至る重い病気で苦しむ多くの患者をみて、何とか救ってやりたいという悲願を起こした一人の医師が、長年の研究と実験の末、ついに治療薬の調合に成功し、その病を撲滅する薬を完成したことに例えられるでしょう。
種痘といえば、エドワード・ジェンナーが有名です。最初、彼は鳥類の研究に没頭していましたが、当時、天然痘で苦しむ多くの人々を見聞して「それらの人を救いたい」という大きな悲願を起こしました。
ジェンナーは、まず天然痘に感染して一旦癒えた人は二度と罹らない事実を確認。名医ハンターに激励され、周到な考察と実験を重ね、わが子に予防法を試みます。また牛痘に感染した乳しぼりの女の手から膿を採取し、8歳の児童の腕に植えもしました。かくて盤石の自信で世に発表するや、「牛痘を植えると角が生える」などの笑止千万な反対運動や非難中傷が巻き起こりましたが、彼は挫けず、骨身惜しまず努力します。その結果、1979年、世界保健機関は、天然痘根絶を宣言するに至りました。ジェンナーの「天然痘で苦しむ人を無くしたい」悲願が、「種痘法」を生みだし、19世紀だけでも数千万の人々が、このいまわしい病苦から救われたのです。
いくら病気を治す原理が宇宙に存在しても、それを発見し、それに則って薬を作る医師がなければ患者は救われません。宇宙の真理を体得した阿弥陀仏が、すべての人の苦悩を抜き取り、絶対の幸福に救いたいという大悲願によって、名号(南無阿弥陀仏)は完成されたのです。まさに名号(南無阿弥陀仏)は「万人の苦悩を除き、永遠の幸福にする」大妙薬に例えられましょう。

阿弥陀仏の本願力(5)

Posted on 3月 11th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重の私たちを「われひとり助けん」と奮い立たれ、どんな人をも必ず絶対の幸福に救うという、世を超えた誓いをたてられているのが、阿弥陀仏といわれる仏であることを学んでいます。そのいきさつを、蓮如上人の『御文章』3帖目1通にお聞きしてみましょう。
「この阿弥陀仏と申すは、いかようなる仏ぞ、また、いかようなる機の衆生を救いたまうぞというに、三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫・女人を、われひとり救わんという大願を発したまいて、五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、それ「衆生の罪においては、いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救わん」と誓いましまして、既に諸仏の悲願に超え勝れたまいて、その願成就して阿弥陀如来とは成らせたまえるを、即ち阿弥陀仏とは申すなり」
「三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫」とは、煩悩に煩い悩まされ、生死の苦海でもだえ苦しんでいる私たちのこと。そんな私たちをご覧ぜられ、何とかして助けてやりたいという大慈悲心から願いを起こされた阿弥陀仏が、どうしたら極悪の十方衆生を救うことができるか、と「五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して」、五劫思惟と兆載永劫のご修行によって「いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救」いたまう準備を完了してくだされたのです。
肉体の病でいえば、死に至る重い病気で苦しむ多くの患者をみて、何とか救ってやりたいという悲願を起こした一人の医師が、長年の研究と実験の末、ついに治療薬の調合に成功し、その病を撲滅する薬が完成したことに例えられるでしょうか。
大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重の私たちを「われひとり助けん」と奮い立たれ、どんな人をも必ず絶対の幸福に救うという、世を超えた誓いをたてられているのが、阿弥陀仏といわれる仏であることを学んでいます。そのいきさつを、蓮如上人の『御文章』3帖目1通にお聞きしてみましょう。
「この阿弥陀仏と申すは、いかようなる仏ぞ、また、いかようなる機の衆生を救いたまうぞというに、三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫・女人を、われひとり救わんという大願を発したまいて、五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、それ「衆生の罪においては、いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救わん」と誓いましまして、既に諸仏の悲願に超え勝れたまいて、その願成就して阿弥陀如来とは成らせたまえるを、即ち阿弥陀仏とは申すなり」
「三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫」とは、煩悩に煩い悩まされ、生死の苦海でもだえ苦しんでいる私たちのこと。そんな私たちをご覧ぜられ、何とかして助けてやりたいという大慈悲心から願いを起こされた阿弥陀仏が、どうしたら極悪の十方衆生を救うことができるか、と「五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して」、五劫思惟と兆載永劫のご修行によって「いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救」いたまう準備を完了してくだされたのです。
肉体の病でいえば、死に至る重い病気で苦しむ多くの患者をみて、何とか救ってやりたいという悲願を起こした一人の医師が、長年の研究と実験の末、ついに治療薬の調合に成功し、その病を撲滅する薬が完成したことに例えられるでしょうか。