私の本性が阿弥陀仏なの?

Posted on 2月 8th, 2010 by longbeach in 阿弥陀仏とは | コメントは受け付けていません。

 阿弥陀仏を「自性唯心」的に考えるのは、華厳、天台、真言、禅宗等の諸大乗や一切の自力宗の人たちです。「自性」とは、自己の本性が阿弥陀仏である。我々の外に阿弥陀仏はない、ということで、「唯心」とは、我々の心が浄土であり、我々の心を離れて外に浄土があると思うのは迷いだ、という考え方です。
 このような考え方の根っこは、「自己の本性は法爾の仏性である。ただそれが久遠以来の迷執の錆のために仏性の鏡面が曇っているけれども、錆の底には本来の玲瓏たる仏性の光は輝いているのだから、煩悩の錆そのものも清浄な仏性とはなれたものではなく、同一のものである。そこにこそ、煩悩即菩提、生死即涅槃の真理が横たわっているのだ。我々はこの真理を自覚し、体得さえすればよい。一切の諸仏も各自、固有の仏性を開発したものである。我々もこの仏性を磨き出すことに努力し、真の仏性を開顕した時が無上の証果を得たときである」という自力主義でしょう。

 親鸞聖人は、かかる考え方を排斥され、『教行信証』信巻別序に、「然るに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈んで浄土の真証を貶し」と述べられ、このような説は、浄土の真証を貶しているのだ、と批判されています。先日、親鸞会の知人から教えてもらいましたが、最近お東で配付されたリーフレットにも、このお言葉が掲載されていたそうですね。
 では、親鸞聖人の拝まれた阿弥陀仏とは、いかなる仏さまであったのでしょうか。

最も有名な仏が阿弥陀仏

Posted on 1月 20th, 2010 by longbeach in 阿弥陀仏とは | コメントは受け付けていません。

前回は、阿弥陀仏の作られた「南無阿弥陀仏」とは何か、と話を進めましたが、少し急ぎすぎたようです。
三世の諸仏に捨てられた極悪人を「われひとり助けん」と立ち上がられた阿弥陀仏とは、どんな仏さまか、ということについて、もっといろいろな角度から、お話しすることにしましょう。
仏さまの中でも、最も知られている仏をあげるとすれば、まず阿弥陀仏でしょう。それほど阿弥陀仏のお名前は親しみ深いものになっています。先日、親鸞会の知人から教えてもらいましたが、かのオバマ大統領が来日した際も、「子供のころ、母親が鎌倉へ連れていってくれた。その時、何世紀もの間、平和と静寂の象徴であり続ける阿弥陀仏の仏像を見上げた」という内容のスピーチがあったそうですね。「……子供だった私は抹茶アイスクリームの方が関心あったが」と続くそうですが、これは余談。(ついでに脱線すると、映画「スター・ウオーズ」に登場するアミダラ姫の名前は阿弥陀仏に由来しているとも)
実際、お釈迦さまが一切経に、阿弥陀仏のことばかり説かれていることは、天台宗の僧も「諸経所讃多在弥陀」(諸経に讃ずるところ多く弥陀に在り)と驚いています。阿弥陀仏に関する所説は浄土系の経典に限らず、浄土諸宗ばかりでなく大乗の諸宗において、阿弥陀仏を説かない宗旨はほとんどない、といってもよいでしょう。
しかし、阿弥陀仏に対する説明は、仏教各宗において解釈を異にしており、これを大別すれば、聖道諸宗における理性を主とする解釈で、阿弥陀仏を自性唯心的なものとするものと、浄土諸宗の事相を主として、浄土の方角を指定して、その形状等を示して、今現に説法中の人格的仏と味わう二つになります。この点について次回、もう少し詳しくふれてみましょう。

阿弥陀仏と第十八の願

Posted on 12月 25th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

 信心獲得(阿弥陀仏に救われる)とはどんなことか。蓮如上人は、『御文章』五帖目五通に、次のように教えられています。
「信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」
 阿弥陀仏は、四十八の本願を建てられていますが、その中で弥陀が本心を誓われているのが十八番目の願、第十八願です。弥陀が「すべての人は極悪人である」と見抜かれた上で「〝南無阿弥陀仏〟を与えて、必ず絶対の幸福に救い摂る」と誓われているお約束が十八願です。『御文章』には、
「それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。然れば、ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、「われひとり助けん」という超世の大願を発して」(御文章二帖目八通)
とあります。
 大宇宙の仏方も、何とか我々を助けたいと思われたが、あまりに罪悪が重く、救済を断念された。私たちは諸仏に見捨てられたのです。ちょうど病気で町医者に行ったところが、検査してみるととても重い。「うちでは治せない、大きな病院に行ってくれ」と言われ、大病院に行ったが「私の力では無理です」とやはり断られ、ついにすべての医者に見放されたようなもの。しかるに諸仏に捨てられた者ならなお、私が助けてみせる、と、ただお一人立ち上がってくだされたのが阿弥陀仏なのです。そして、すべての人を必ず絶対の幸福に救う、という無上の誓願を建立してくだされたのですね。信心獲得とは、その誓いどおりに現在ただ今、絶対の幸福に救い摂られて、「本願まことだった、本当だった」と知らされたことで、それを「第十八の願を心得る」といわれています。
 それは破闇満願の大功徳のある〝南無阿弥陀仏〟の名号を弥陀から丸もらいして、「無上甚深の功徳利益であった」とハッキリしたことですから、「南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」とも言われています。と、いいましても「南無阿弥陀仏」とは何ぞやと思われるかもしれません。阿弥陀仏が作られた名号について次に述べたいと思います。

阿弥陀仏の救いは現在

Posted on 11月 25th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは | コメントは受け付けていません。

『正信偈』の冒頭二行は

「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ、親鸞は阿弥陀仏に助けられたぞ」

と同じことを二度繰り返しておられるお言葉であること、そこにはどれだけ言っても言い足りない、弥陀に救われた喜びが表されていることを、みてきました。

では、この『正信偈』の二行から分かることは何でしょうか。
まず、弥陀の救いは死後ではない、ということでしょう。いうまでもなく親鸞聖人は生きておられる時に「親鸞、救われたぞ」と書かれているのですから、「死んだらお助け」でないことは明らかです。
また、弥陀の救いはハッキリする、ということも分かります。ハッキリしなければハッキリ書けないからです。ハッキリ弥陀に救われられた聖人だからこそ、「親鸞は救われた」と、ハッキリ書かれた。
そしてもちろん、ほかの仏や、人間の力で救われるのではなく、まったく阿弥陀仏のお力によって救われるということも分かりますね。

さて、そのように弥陀に救われたことを「信心獲得」といわれます。信心と聞くと世間では「いわしの頭も信心から」といって、何かを信じていれば、その人の信心だといわれます。そして「もっと信心しなさい」「信心が足りない」というような言い方をしますね。ところが信心のあとに「獲得」とあります。信心獲得。これは親鸞聖人の教えにしかない言い方です。蓮如上人も『御文章』のいたるところに、「信を獲る」と書かれていますが、「信心する」という言い方は絶対にありません。浄土真宗に「信心する」という言葉はありえない。逆に浄土真宗以外の信心に「獲得」という言葉はありえない。

「信心する」と「信を獲る」。このわずかな言葉の違いに大変な距離があることを、敏感な方なら感じ取られるでしょう。果たして信心獲得とは、阿弥陀仏に救われるとは、どんなことをいわれるのでしょうか。

「阿弥陀仏に救われた」

Posted on 10月 23rd, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは | コメントは受け付けていません。

 前回、『正信偈』の冒頭「帰命無量寿如来 南無不可思議光」「無量寿如来」「不可思議光」「阿弥陀仏」の別名であることをお話ししました。せっかくですから、この二行にどんなことが書かれているか、続けて述べてみましょう。
「帰命」と「南無」は同じ意味です。浄土真宗の方なら「南無というは帰命なり」という蓮如上人の『御文章』を聞かれたことがあると思います。「南無」は昔のインドの言葉、帰命は昔の中国の言葉です。仏教は、お釈迦さまがインドで説かれ、中国へ伝えられましたから、昔のインドの言葉や、中国の言葉が使われているのですね。

 では「帰命」とか「南無」とはどんな意味でしょうか。分かりやすくいえば「救われた、助けられた」ということです。

 ですから、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」とは「親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ。親鸞は、阿弥陀仏に助けられたぞ」と同じことを二度、繰り返されていることになります。

 なぜ二度も、と思われるでしょうか。本当は二度くらいでない、弥陀に救われたうれしさには言わずにおれない、叫ばずにおれないという御心が、この二行にあふれているのですね。

 さて、ここから分かることは何でしょうか。阿弥陀仏の救いとは、どんなものなのでしょうか。

阿弥陀仏には別名がたくさん

Posted on 9月 15th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは | コメントは受け付けていません。

有名な親鸞聖人の『正信偈』は、

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)

で始まります。この「無量寿如来」も「不可思議光」も「阿弥陀仏」の別名であるということを、ご存じでしたか。

仏教は約二千六百年前、インドでお釈迦さまが説かれました。その釈迦が、「私の尊い先生を紹介しに来たのだよ」と私たちに教えてくださったのが、阿弥陀仏という仏です。

『御文章』では、

ここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば」(二帖目八通)

と分かりやすく教えられています。

本師本仏とは師匠、先生ということ。「阿弥陀仏は大宇宙のあらゆる仏の師匠であり、いちばん偉い仏である」ということです。『正信偈』の初めに、「無量寿如来」とか「不可思議光」といわれているのは、その阿弥陀仏の別名なのです。

阿弥陀仏は本師本仏ですから、たくさんのお徳(お力)をもっておられます。それで、たくさんの別名があります。なぜお徳がたくさんあると、名前がたくさんになるのかといえば、お徳(特徴)に応じて、いろいろの名で呼ばれるからです。人間でも、あの人は将棋の名人、碁も一番、剣道も世界一、柔道も世界一となんでもできる人がいたら、その人にはいろいろの呼び名がつくでしょう。阿弥陀仏のお力は無限、なんでもできる仏さまですから、たくさんの名前をもっておられるのもうなずけます。二十幾つあると言われます。

中でもよく使われるのが無量寿如来。次が不可思議光如来。『正信偈』の最初にも、その二つの名前が用いられています。ですから、ともに、阿弥陀仏のことなのです。

「それなら最初から、帰命阿弥陀如来、南無阿弥陀如来」と書いてくださったら分かりやすいのに、と思われるかもしれませんが、阿弥陀仏にはいろいろなお徳があることを示され、また文章には、やはり変化があったほうが読みやすいということもあるのではないでしょうか。

なぜ、阿弥陀仏が本師本仏なのか

Posted on 8月 3rd, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは | コメントは受け付けていません。

浄土真宗親鸞会発行の高森顕徹先生の著書に「こんなことが知りたい」というシリーズ4巻の本があります。
その中から、いくつかの内容をピックアップして紹介しましょう。

阿弥陀仏は、この地球上でブッダとなられたお釈迦さまの先生である、と説かれています。
お釈迦様だけでなく、大宇宙のあらゆる仏の先生であり、師匠にあたる仏が阿弥陀仏である、と言われますが、そのことについて学んでみましょう。

[問]
阿弥陀仏は本師本仏だから、あらゆる仏や菩薩は阿弥陀仏を称讃し礼拝するのだとお聞き致しますが、その根拠は何処にあるのでしょうか。

[答]
釈迦の前に仏なし釈迦の後に仏なしといわれますように、この地球上に現れた仏は釈迦ただ1人であります。

その釈尊が35歳で成仏してから80歳でご入滅するまでの45年間の教えがすなわち仏教ですが、いったい釈尊は何を説くのが目的であったのでしょうか。

親鸞聖人は『教行信証』に、

「それ真実の教をあらわさば、すなわち大無量寿経これなり」

と喝破なされています。

釈迦一代の教えは真実の経、『大無量寿経』唯1つを説かんがための方便であったのだと断言なされています。

では『大無量寿経』には何が説かれているのでしょうか。それはただ、すべての人々が本当に幸福に救われる阿弥陀仏の本願のみが説かれています。

ゆえに、親鸞聖人は『正信偈』に、

「釈迦如来がこの世に生まれられた目的は、ただ、弥陀の本願のみを説かんが為なり」

と仰せになっております。

釈尊は、阿弥陀仏の使いの者として、この世に出て阿弥陀仏の本願を説かれたのです。これを聖人は、

「久遠実成(くおんじつじょう)阿弥陀仏
五濁(ごじょく)の凡愚(ぼんぐ)をあわれみて
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)としめしてぞ
迦耶城(がやじょう)には応現する」(和讃)

とおっしゃっています。

また、親鸞聖人の仰せのとおり釈尊は、一切経に阿弥陀仏のことばかりほめたたえていられます。

「阿弥陀仏の威神光明は最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり」(大無量寿経)

とか、

「十方無辺不可思議の諸仏如来、阿弥陀仏を称讃せざるはなし」

とか、

「諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり」(大阿弥陀経)

とか、挙げればきりがありません。

ゆえに

「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」

と天台宗の荊溪(けいけい)でさえ驚いているのです。

ではなぜ阿弥陀仏を一切の仏方が称讃し礼拝されるのか。その理由は『般舟経』(はんじゅきょう)に明らかに説かれています。

「三世の諸仏は、弥陀三昧を念じて、等正覚(仏)に成る」

これは一切の諸仏は、最後は阿弥陀仏のお力によって、仏になったということです。大日如来も薬師如来も、そうであるように釈尊もその例に漏れません。

ですからあらゆる仏は阿弥陀仏には頭が上がらないのです。本師本仏と崇め奉る道理ではありませんか。

三世十方の諸仏たちでさえそうなんですから、ましていわんや私たちは一向専念阿弥陀仏で、阿弥陀仏一仏を一向に信じ奉るより、絶対の幸福になる道は毛頭ないことをよくよく知らなければなりません。

(「こんなことが知りたい2」[14]より)

阿弥陀仏の本願とは、どんなことなのか

Posted on 7月 10th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは, 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

浄土真宗親鸞会発行の高森顕徹先生の著書に「こんなことが知りたい」というシリーズ4巻の本があります。
その中から、いくつかの内容をピックアップして紹介しましょう。

[問]
私は余り仏法を聞いたことのない者ですが、病気になり今死ぬとどうなるのかと思うと、大変おそろしく思います。阿弥陀仏の本願とはどんなことでしょうか。

[答]
阿弥陀仏といわれる仏は宇宙最高の仏です。
原子物理学者でなければ小さい原子の世界は分からないのと同じように、仏の境界のことは仏智を諦得なされた仏でなければ分かりません。
この地球上で今日までに仏の境地に出られた方は、釈尊の外にはありません。
釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なしです。

その釈尊が、35歳の12月8日に成仏なされて80歳の2月15日に涅槃の雲にかくれられるまでの45年間に説かれた一切経の中には、大宇宙にまします数多くの仏の御名前が出ていますが、その中で一番多いのが阿弥陀仏の御名前です。
だから天台大師でさえ「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」と驚嘆したのです。

「諸仏の中の王なり」とか「最尊第一の仏、阿弥陀仏」とか、「諸仏の中の極尊なり」等、あげればキリがありませんが、何しろあらゆる仏の中の大統領にあたる無上の仏なのです。
大日如来や薬師如来や、釈迦如来なども、みな阿弥陀仏の弟子であり家来であり、使いです。

だから親鸞聖人は『和讃』に、

「久遠実成(くおんじつじょう)の阿弥陀仏、
五濁(ごじょく)の凡愚(ぼんぐ)をあわれみて、
釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と示してぞ、
迦耶城(がやじょう)には応現(おうげん)する」

と言われたのです。

その阿弥陀仏を焼く創価学会などは、断じて仏教ではなくて、外道の親玉だということが分かるでしょう。

さて、その宇宙最高の阿弥陀仏がどんな本願をたてられたかとのお尋ねですが、本願ということは誓願ともいいまして、約束ということです。
どんな約束をわれわれとなされたのかと申しますと、あらゆる人々は不幸で苦しみ悩み続けている。
あればあるで苦しみ、なければないで苦しむ、所詮苦より離れ切れない、あわれな存在である私達を何とか助けてやりたい、という大慈悲心をおこされました。
そして「われを信じよ。どんな苦悩をもつ者でも、この世も未来も最高無上の幸福にしてみせる。若し、絶対の幸福に出来なかったら、仏の生命を捨てよう」と約束なさったのです。

この世も未来も、どんな苦悩を持つ者も平等に絶対の幸福を与えようという、とてつもない本願ですから『正信偈』には「無上殊勝の願を建立なされた」と親鸞聖人は仰有っておられます。
この大誓願を信ずる一念に、本願の通りに絶対の幸福になることが出来るのです。

(「こんなことが知りたい1 [16]より)

阿弥陀仏の「必ず絶対の幸福に生まれさせる」のご念力

Posted on 6月 7th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏とは, 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

絶対に色あせることも崩れることもない幸福が、絶対の幸福であり、歎異抄には摂取不捨の利益と教えられています。

しかし、そう聞くと私たちは、「摂取不捨の利益?そんなもの本当にあるの?」「絶対の幸福になんかなれるはずがない」などと、本願を疑います。
中には「絶対の幸福なんて夢物語、ユートピアだ」「脳内現象じゃないか」「どうせ特殊な宗教体験だろう、自分とは関係ない」と怪しむ人もありましょう。

そこで阿弥陀仏は、「十方衆生」のその疑いを晴らして、「絶対の幸福」に救い摂るために、「正覚」(仏の覚り)の命を懸けて誓われているお言葉が、
「若不生者(にゃくふしょうじゃ)不取正覚(ふしゅしょうがく)」(若し生まれずは、正覚を取らじ)
の8字です。

これは、阿弥陀仏の本願、漢字36文字の一節です。

「正覚」とは「仏の覚り」のことであり、仏覚は仏さまの命ですから、これは、
「もし『信楽(しんぎょう:絶対の幸福)』に生まれさせることができなければ、命を捨てる」
といわれているお言葉です。

阿弥陀仏が命を懸けて、私たちを「必ず絶対の幸福に救う」と誓われているのが、「若不生者(にゃくふしょうじゃ)の誓い」なのです。

卑近な例えで言うと、銀行でローンを組む際、こちらの返済能力を疑う相手の疑念を晴らすために、土地や建物を担保に入れるでしょう。

阿弥陀仏は私たちの、「本当に助かるのか」の疑心を晴らすために、自身の命を担保に、
「平生ただ今、必ず絶対の幸福に生まれさせる」
と誓われているのです。

このように、阿弥陀仏のお力で絶対の幸福に救われたことを、信心決定(しんじんけつじょう)とか、信心獲得(しんじんぎゃくとく)と言います。

この絶大な「若不生者のご念力」によって、平生の一念、疑心が晴れわたり、必ず「信楽」に生まれる時が来るのだよと、親鸞聖人は生涯、教え続けていかれたのです。

若不生者のちかいゆえ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ
(親鸞聖人)

親鸞聖人が、どんなご生涯を送られた方か、親鸞聖人のお歌といって、親しみやすく歌で教えられたものがありますので、その歌を通じて学んでみられるのもよいですね。

阿弥陀仏のお約束の内容とは

Posted on 5月 11th, 2009 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、すべての人を必ず絶対の幸福にしてみせる、と約束しておられます。
絶対の幸福とは、絶対に崩れない、捨てられない幸福のことです。

東京の高島平や千葉の常盤平など、都心近郊の団地として開発され、かつては憧れの的だったエリアが、30年を経た今、子供は皆巣立ち、独り暮らしの年配者が増え、孤独死の温床になっているといいます。
身寄りがなく起居もままならぬからと、役所を介して入居した老人ホームが悪質業者で、悲惨な生活を強いられている高齢者の実態が、NHKの番組でも紹介されていました。

わずか八畳間に男女の区別なく三人押し込められ、風呂にも入れず、食事は一日たったの200円。
入居者の生活保護費を狙い、介護報酬を国から取って、経費は極限まで切り詰め儲けを出す悪質ぶりには、ア然としました。

ある男性は「まるで、金を払って入る、現代の姥捨て山ですよ」と涙ぐむ。

家やアパートを引き払っているから、出るに出られない。
「身寄りがない、いられるだけでよい」という弱味につけ込む悪どい業者、それを把握せず仲介していた行政の欠陥が、浮き彫りにされていました。

死に物狂いで働き、日本の高度経済成長を支え、家族を養ってきたのに、その家族を失い、頼みの綱の国にも裏切られた悲嘆は、想像に余りあります。
会社に捨てられ、友人も去って、才能は枯渇、体力も気力も萎えてゆく。
オギャッとこの世に生まれ落ちてより、努力してかき集めてきたものが、年とともに奪われていく。
最後、死んでいく時には、丸裸でこの世を去っていかねばなりません。
これが人生というものならば、一体どこに、生きる喜びがあるでしょうか。何をしに、この世に出てきたのでしょうか。

「火宅(かたく)無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し」(歎異抄)

やがて必ず「捨てられる」ものしか知らず、薄氷を踏む不安で毎日を送っている私たちをご覧になって、阿弥陀如来は、「すべての人を、絶対に裏切られることのない、大安心の身にしてやりたい」と、無上の願いを起こされたのです。
何と有り難いことではありませんか。

本願に誓われている「信楽」とは、その絶対不変の幸福のことであり、『歎異抄』にはこれを「摂取不捨の利益」といわれているのです。