阿弥陀仏の本願と名号

Posted on 4月 28th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

大宇宙の仏方に見放された罪悪深重の私たちを、「われひとり助けん」と奮い立たれた阿弥陀仏は、「どんな人をも必ず絶対の幸福に助ける」という本願を建てられました。それは諸仏にズバ抜けた阿弥陀仏の絶大なお力なればこそなしうる大宇宙に二つとない超世のお約束であり、無上殊勝の本願であることを学んできました。
そこで、阿弥陀仏は私たちをどのようにして絶対の幸福に救うと誓われているのでしょうか。阿弥陀仏が自らの誓いを果たすためにつくられたのが、「南無阿弥陀仏」の名号であります。弥陀は極悪の十方衆生に「私のつくった名号(南無阿弥陀仏)を与えて救う」と誓われているのです。
阿弥陀仏が十方衆生を救済するために名号を完成された経緯は、肉体の病でいえば、死に至る重い病気で苦しむ多くの患者をみて、何とか救ってやりたいという悲願を起こした一人の医師が、長年の研究と実験の末、ついに治療薬の調合に成功し、その病を撲滅する薬を完成したことに例えられるでしょう。
種痘といえば、エドワード・ジェンナーが有名です。最初、彼は鳥類の研究に没頭していましたが、当時、天然痘で苦しむ多くの人々を見聞して「それらの人を救いたい」という大きな悲願を起こしました。
ジェンナーは、まず天然痘に感染して一旦癒えた人は二度と罹らない事実を確認。名医ハンターに激励され、周到な考察と実験を重ね、わが子に予防法を試みます。また牛痘に感染した乳しぼりの女の手から膿を採取し、8歳の児童の腕に植えもしました。かくて盤石の自信で世に発表するや、「牛痘を植えると角が生える」などの笑止千万な反対運動や非難中傷が巻き起こりましたが、彼は挫けず、骨身惜しまず努力します。その結果、1979年、世界保健機関は、天然痘根絶を宣言するに至りました。ジェンナーの「天然痘で苦しむ人を無くしたい」悲願が、「種痘法」を生みだし、19世紀だけでも数千万の人々が、このいまわしい病苦から救われたのです。
いくら病気を治す原理が宇宙に存在しても、それを発見し、それに則って薬を作る医師がなければ患者は救われません。宇宙の真理を体得した阿弥陀仏が、すべての人の苦悩を抜き取り、絶対の幸福に救いたいという大悲願によって、名号(南無阿弥陀仏)は完成されたのです。まさに名号(南無阿弥陀仏)は「万人の苦悩を除き、永遠の幸福にする」大妙薬に例えられましょう。

阿弥陀仏の本願力(5)

Posted on 3月 11th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重の私たちを「われひとり助けん」と奮い立たれ、どんな人をも必ず絶対の幸福に救うという、世を超えた誓いをたてられているのが、阿弥陀仏といわれる仏であることを学んでいます。そのいきさつを、蓮如上人の『御文章』3帖目1通にお聞きしてみましょう。
「この阿弥陀仏と申すは、いかようなる仏ぞ、また、いかようなる機の衆生を救いたまうぞというに、三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫・女人を、われひとり救わんという大願を発したまいて、五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、それ「衆生の罪においては、いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救わん」と誓いましまして、既に諸仏の悲願に超え勝れたまいて、その願成就して阿弥陀如来とは成らせたまえるを、即ち阿弥陀仏とは申すなり」
「三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫」とは、煩悩に煩い悩まされ、生死の苦海でもだえ苦しんでいる私たちのこと。そんな私たちをご覧ぜられ、何とかして助けてやりたいという大慈悲心から願いを起こされた阿弥陀仏が、どうしたら極悪の十方衆生を救うことができるか、と「五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して」、五劫思惟と兆載永劫のご修行によって「いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救」いたまう準備を完了してくだされたのです。
肉体の病でいえば、死に至る重い病気で苦しむ多くの患者をみて、何とか救ってやりたいという悲願を起こした一人の医師が、長年の研究と実験の末、ついに治療薬の調合に成功し、その病を撲滅する薬が完成したことに例えられるでしょうか。
大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重の私たちを「われひとり助けん」と奮い立たれ、どんな人をも必ず絶対の幸福に救うという、世を超えた誓いをたてられているのが、阿弥陀仏といわれる仏であることを学んでいます。そのいきさつを、蓮如上人の『御文章』3帖目1通にお聞きしてみましょう。
「この阿弥陀仏と申すは、いかようなる仏ぞ、また、いかようなる機の衆生を救いたまうぞというに、三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫・女人を、われひとり救わんという大願を発したまいて、五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、それ「衆生の罪においては、いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救わん」と誓いましまして、既に諸仏の悲願に超え勝れたまいて、その願成就して阿弥陀如来とは成らせたまえるを、即ち阿弥陀仏とは申すなり」
「三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫」とは、煩悩に煩い悩まされ、生死の苦海でもだえ苦しんでいる私たちのこと。そんな私たちをご覧ぜられ、何とかして助けてやりたいという大慈悲心から願いを起こされた阿弥陀仏が、どうしたら極悪の十方衆生を救うことができるか、と「五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して」、五劫思惟と兆載永劫のご修行によって「いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救」いたまう準備を完了してくだされたのです。
肉体の病でいえば、死に至る重い病気で苦しむ多くの患者をみて、何とか救ってやりたいという悲願を起こした一人の医師が、長年の研究と実験の末、ついに治療薬の調合に成功し、その病を撲滅する薬が完成したことに例えられるでしょうか。

阿弥陀仏の本願力(4)

Posted on 2月 15th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重の私たちを「われひとり助けん」と奮い立たれた阿弥陀仏は、すべての人を等しく真実の幸福に救うという、世を超えた本願(お約束)を建てられました。その弥陀の本願に救い摂られ、阿弥陀仏の本願によらねば、すべての人は救われないことを明らかにしていかれた方が親鸞聖人でした。『正信偈』冒頭にも、弥陀に救い摂られたご自身のことを、こう宣言されています。
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)
「無量寿如来」も「不可思議光」も阿弥陀仏の別名であり、「帰命」「南無」は「救われた」ことですから、「親鸞は、阿弥陀仏に救われた、親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ」と、繰り返し仰って、『正信偈』を書き始められています。
ここで「阿弥陀仏に救われた」とはどういうことか、確認しなければならないと思います。「阿弥陀仏に救われる」と聞くと、阿弥陀仏という仏さまが、私の首ねっこをつかまえて、ポーンと極楽浄土へ放り込まれるようなイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。「阿弥陀仏に救われる」とは、「阿弥陀仏の本願に救われる」ということであり「弥陀の本願に疑い晴れる」ことです。
阿弥陀仏は「どんな人をも必ず往生一定(絶対の幸福)に救う」というお約束をなされています。本願には、その約束を果たす力、本願力があります。蓮如上人の「聖人一流の章」に「不可思議の願力として仏の方より往生は治定せしめたまう」と教えられている「不可思議の願力」です。その弥陀の本願力によって往生一定(往生治定)になった時が、往生一定に救うという弥陀の誓い、まことだったとはっきりした時。その時のことを親鸞聖人は「誠なるかなや、摂取不捨の真言」(弥陀の本願、まことだった)と表明されています。これが弥陀の救いの決勝点です。
阿弥陀仏の本願を聞かなければ、本願に対する疑いもなければ、その疑いが晴れる(救われる)ということもありません。だから仏願(阿弥陀仏の本願)の生起本末を聞かせていただかなければならないのですね。「仏法は聴聞に極まる」の蓮如上人のご教導に、うなずくばかりです。
大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重の私たちを「われひとり助けん」と奮い立たれた阿弥陀仏は、すべての人を等しく真実の幸福に救うという、世を超えた本願(お約束)を建てられました。その弥陀の本願に救い摂られ、阿弥陀仏の本願によらねば、すべての人は救われないことを明らかにしていかれた方が親鸞聖人でした。『正信偈』冒頭にも、弥陀に救い摂られたご自身のことを、こう宣言されています。
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)
「無量寿如来」も「不可思議光」も阿弥陀仏の別名であり、「帰命」「南無」は「救われた」ことですから、「親鸞は、阿弥陀仏に救われた、親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ」と、繰り返し仰って、『正信偈』を書き始められています。
ここで「阿弥陀仏に救われた」とはどういうことか、確認しなければならないと思います。「阿弥陀仏に救われる」と聞くと、阿弥陀仏という仏さまが、私の首ねっこをつかまえて、ポーンと極楽浄土へ放り込まれるようなイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。「阿弥陀仏に救われる」とは、「阿弥陀仏の本願に救われる」ということであり「弥陀の本願に疑い晴れる」ことです。
阿弥陀仏は「どんな人をも必ず往生一定(絶対の幸福)に救う」というお約束をなされています。本願には、その約束を果たす力、本願力があります。蓮如上人の「聖人一流の章」に「不可思議の願力として仏の方より往生は治定せしめたまう」と教えられている「不可思議の願力」です。その弥陀の本願力によって往生一定(往生治定)になった時が、往生一定に救うという弥陀の誓い、まことだったとはっきりした時。その時のことを親鸞聖人は「誠なるかなや、摂取不捨の真言」(弥陀の本願、まことだった)と表明されています。これが弥陀の救いの決勝点です。
阿弥陀仏の本願を聞かなければ、本願に対する疑いもなければ、その疑いが晴れる(救われる)ということもありません。だから仏願(阿弥陀仏の本願)の生起本末を聞かせていただかなければならないのですね。「仏法は聴聞に極まる」の蓮如上人のご教導に、うなずくばかりです。

阿弥陀仏の本願力(3)

Posted on 1月 21st, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重・煩悩具足の私たちを、「われひとり助ける」と誓われた本師本仏の阿弥陀仏。その阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は『教行信証』冒頭に「難度の海を度する大船」と例えられ、「大悲の願船」と喝破されています。親鸞聖人九十年のみ教えは、この大悲の願船の厳存と、乗り方以外にはありません。しかし、自分のような者が本当に救われるのかと、二の足を踏む人もあるでしょう。聖人は、何の心配も要らないと、こう励ましておられます。
「願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず」
「大悲の願船のお力は無限だから、いかに罪が深く重くとも、全く問題にならない。広大無辺な本願の大船は、心の散乱したデタラメな者も、捨てず裁かず、救い摂ってくださるのである」
弥陀は五劫の思惟で十方衆生を徹底精査なされ、「煩悩具足の凡夫」と診断されています。欲や怒り、ねたみそねみなど百八の煩悩の塊が人間だと、とうの昔に見抜かれているのです。一生、悪しか造れない、煩悩百パーセントの我々を、親鸞聖人は罪の極めて深く重い「罪業深重」の者と言われています。これはすべての人の姿ですから、72億の人がいても、例外は一人もありません。「あの人よりは、まだ罪が軽い」とうぬぼれているのは、人間の目線です。十方衆生を「罪業深重」と知り抜かれた弥陀が、全て計算の末に造られた大船が「大悲の願船」ですから、全人類の罪を一人で抱えていても、救われるのです。どんなに罪の重い人が乗っても、大船は微動だにしません。だから早く乗りなさいよと、聖人は生涯、教え続けていかれたのですね。
大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重・煩悩具足の私たちを、「われひとり助ける」と誓われた本師本仏の阿弥陀仏。その阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は『教行信証』冒頭に「難度の海を度する大船」と例えられ、「大悲の願船」と喝破されています。親鸞聖人九十年のみ教えは、この大悲の願船の厳存と、乗り方以外にはありません。しかし、自分のような者が本当に救われるのかと、二の足を踏む人もあるでしょう。聖人は、何の心配も要らないと、こう励ましておられます。
「願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず」
「大悲の願船のお力は無限だから、いかに罪が深く重くとも、全く問題にならない。広大無辺な本願の大船は、心の散乱したデタラメな者も、捨てず裁かず、救い摂ってくださるのである」
弥陀は五劫の思惟で十方衆生を徹底精査なされ、「煩悩具足の凡夫」と診断されています。欲や怒り、ねたみそねみなど百八の煩悩の塊が人間だと、とうの昔に見抜かれているのです。一生、悪しか造れない、煩悩百パーセントの我々を、親鸞聖人は罪の極めて深く重い「罪業深重」の者と言われています。これはすべての人の姿ですから、72億の人がいても、例外は一人もありません。「あの人よりは、まだ罪が軽い」とうぬぼれているのは、人間の目線です。十方衆生を「罪業深重」と知り抜かれた弥陀が、全て計算の末に造られた大船が「大悲の願船」ですから、全人類の罪を一人で抱えていても、救われるのです。どんなに罪の重い人が乗っても、大船は微動だにしません。だから早く乗りなさいよと、聖人は生涯、教え続けていかれたのですね。

阿弥陀仏の本願力(2)

Posted on 12月 10th, 2015 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。「大宇宙の仏方に見放された罪悪深重・煩悩具足の私たちのため」でした。そんな救いようのない凡愚底下のつみびとを「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏は、いかなるお力をもっていらっしゃるのでしょうか。
仏教では、仏さまの念力、仏力を光明(智慧)といいます。私たちの目に見えない仏さまの大願業力、大念力をいうのですね。仏は光明と寿命、智慧と慈悲の覚体といわれますのは、私たちを救わんとするお力を持っていられることをいうのですが、阿弥陀仏が「本師本仏」と崇められ、諸仏の王といわれるのは、弥陀の光明・智慧が、諸仏にズバ抜けているからにほかなりません。
それを、お釈迦さまは『大無量寿経』に、
「無量寿仏の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざるところなり」
(阿弥陀仏の光明は、大宇宙最高であり、十方の諸仏の光明の遠く及ばぬ勝れた光明である)
と明示され、親鸞聖人も、
「無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり」(浄土和讃)
(阿弥陀仏の光明(智慧)は無量で、十方の諸仏が見捨てた私たちを救うお力(智慧)を持っていられるから、一切の諸仏や菩薩方は阿弥陀仏を智慧光仏といって、褒め称えていられるのである)
と教えられています。
私たちの罪悪の重さと弥陀のお力とは、どちらがどうなのか。次に親鸞聖人にお聞きしてみましょう。
阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。それは「大宇宙の仏方に見放された罪悪深重・煩悩具足の私たちのため」でありました。そんな救いようのない凡愚底下のつみびとを、「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏は、いかなるお力をもっていらっしゃるのでしょうか。
仏教では、仏さまの念力、仏力を光明(智慧)といいます。私たちの目に見えない仏さまの大願業力、大念力をいうのですね。仏は光明と寿命、智慧と慈悲の覚体といわれますのは、私たちを救わんとするお力を持っていられることをいうのですが、阿弥陀仏が「本師本仏」と崇められ、諸仏の王といわれるのは、弥陀の光明・智慧が、諸仏にズバ抜けているからにほかなりません。
それを、お釈迦さまは『大無量寿経』に、
「無量寿仏の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざるところなり」
(阿弥陀仏の光明は、大宇宙最高であり、十方の諸仏の光明の遠く及ばぬ勝れた光明である)
と明示され、親鸞聖人も、
「無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり」(浄土和讃)
(阿弥陀仏の光明(智慧)は無量で、十方の諸仏が見捨てた私たちを救うお力(智慧)を持っていられるから、一切の諸仏や菩薩方は阿弥陀仏を智慧光仏といって、褒め称えていられるのである)
と教えられています。
では、その弥陀のお力と、私たちの罪悪の重さでは、どちらがどうなのか。次にお聞きしてみましょう。

阿弥陀仏の本願力(1)

Posted on 11月 30th, 2015 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。それは「大宇宙の仏方に見捨てられた罪悪深重の私たちの人ため」であることを、お聞きしてきました。
そんな諸仏に捨てられた罪悪深重の者を「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏とは、いかほどのお力をもっていらっしゃるのでしょうか。
それを知るはじめに、親鸞会の高森先生の著書『なぜ生きる2』の一部を、引用したいと思います。
<以下引用>
先生が「太陽と月と、どちらが偉大か」と聞くと、生徒が答えた。
「それは月です。月は闇夜を照らしてくれますが、太陽はもともと明るいところを照らすだけです」
『世界のジョーク事典』の笑話だが、阿弥陀仏とお釈迦さまと、どちらが偉大か。まずお伝えしなければならない。
親鸞聖人は、阿弥陀仏について、こう説かれている。
大宇宙には、数え切れない仏(諸仏)がましますが、阿弥陀仏のお力は、それらの諸仏の絶讃を浴びている。
弥陀の偉大さは、諸仏と比較にならない別格だ。この阿弥陀仏のお力によらねば、罪悪深重の十方衆生(すべての人)は絶対に救われないのである。
弥陀一仏に、一向一心にならねばならない。
以下は、その文証である。
仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ(浄土和讃)
これは決して、親鸞聖人の独断ではない。
釈迦の経典には、阿弥陀仏を称賛する声が、高く多く説き重ねられている。
ほんの数例を、挙げておこう。
阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王様だ。
「阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり」(大阿弥陀経)
諸仏の中で阿弥陀仏のお力は、最高無上である。
「諸仏光明の王、光明の中の最極尊なり」(平等覚経)
十方衆生(すべての人)は、煩悩具足で罪悪深重だから、阿弥陀仏一仏を専念せよ。
「無量寿仏に一向専念せよ」(『大無量寿経』下巻)
親鸞聖人の尊敬される善導大師は、〝十方諸仏の国は、すべて阿弥陀仏の国である〟と断定的である。
「十方諸仏の国は、尽く是れ法王の家」(往生礼讃)
蓮如上人も、阿弥陀仏は諸仏の本師本仏であることを、懇ろに教導されている。
「阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師・師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏の、これを喜びたまわざるべきや。この謂を以て、よくよく心得べし」(『御文章』二帖目九通)
前掲の『世界のジョーク事典』の笑話で言えば、日光を受けての月光だから、いよいよ阿弥陀仏は、諸仏の本師本仏(師匠)であることは明白であろう。
<引用ここまで>
阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。それは「大宇宙の仏方に見捨てられた罪悪深重の私たちのため」であることを、お聞きしてきました。
そんな諸仏に捨てられた罪悪深重の者を「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏とは、いかほどのお力をもっていらっしゃるのでしょうか。
それを知るはじめに、親鸞会の高森先生の著書『なぜ生きる2』の一部を、引用したいと思います。
<以下引用>
先生が「太陽と月と、どちらが偉大か」と聞くと、生徒が答えた。
「それは月です。月は闇夜を照らしてくれますが、太陽はもともと明るいところを照らすだけです」
『世界のジョーク事典』の笑話だが、阿弥陀仏とお釈迦さまと、どちらが偉大か。まずお伝えしなければならない。
親鸞聖人は、阿弥陀仏について、こう説かれている。
大宇宙には、数え切れない仏(諸仏)がましますが、阿弥陀仏のお力は、それらの諸仏の絶讃を浴びている。
弥陀の偉大さは、諸仏と比較にならない別格だ。この阿弥陀仏のお力によらねば、罪悪深重の十方衆生(すべての人)は絶対に救われないのである。
弥陀一仏に、一向一心にならねばならない。
以下は、その文証である。
仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ(浄土和讃)
これは決して、親鸞聖人の独断ではない。
釈迦の経典には、阿弥陀仏を称賛する声が、高く多く説き重ねられている。
ほんの数例を、挙げておこう。
阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王様だ。
「阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり」(大阿弥陀経)
諸仏の中で阿弥陀仏のお力は、最高無上である。
「諸仏光明の王、光明の中の最極尊なり」(平等覚経)
十方衆生(すべての人)は、煩悩具足で罪悪深重だから、阿弥陀仏一仏を専念せよ。
「無量寿仏に一向専念せよ」(『大無量寿経』下巻)
親鸞聖人の尊敬される善導大師は、〝十方諸仏の国は、すべて阿弥陀仏の国である〟と断定的である。
「十方諸仏の国は、尽く是れ法王の家」(往生礼讃)
蓮如上人も、阿弥陀仏は諸仏の本師本仏であることを、懇ろに教導されている。
「阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師・師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏の、これを喜びたまわざるべきや。この謂を以て、よくよく心得べし」(『御文章』二帖目九通)
前掲の『世界のジョーク事典』の笑話で言えば、日光を受けての月光だから、いよいよ阿弥陀仏は、諸仏の本師本仏(師匠)であることは明白であろう。
<引用ここまで>

阿弥陀仏と煩悩具足の凡夫(40)

Posted on 10月 31st, 2015 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。
『本願』には「逆謗の屍の十方衆生のため」と説かれ、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがため」(1章)、「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがため」(9章)、『御文章(お文)』には「大宇宙の仏方に見捨てられた私たち凡夫のため」等と教えられていることを、お聞きしてきました。これらの教導によって、次のことが知られましょう。
「阿弥陀仏の見抜かれた人間には「善人」と「悪人」の2種類いるのではなく、「悪人」の1種類しかいない」(もちろん、ここでいう悪人は、倫理道徳や法律上の悪人ということではありません)
そしてこの「仏願の生起」を知れば知るほど、罪悪深重の人間(私)が救われる道は、阿弥陀仏の本願以外にはないと、誰もが弥陀の救いを求めずにいられなくなるのではないでしょうか。
いや、それには阿弥陀仏という仏の偉大さ、パワー(お力)のすごさを知る必要があるかもしれません。事実、釈迦は一切経に阿弥陀仏のことばかり褒め称えておられるので、天台宗の荊渓も「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」と驚いているほどです。
では「大宇宙の仏に見捨てられた罪悪深重の人間」を「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏とは、いかなる仏であるのか。そのお力はいかほどであると説かれているのか。その学びに入っていきましょう。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。

『本願』には「逆謗の屍の十方衆生のため」と説かれ、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがため」(1章)、「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがため」(9章)、『御文章(お文)』には「大宇宙の仏方に見捨てられた私たち凡夫のため」等と教えられていることを、お聞きしてきました。これらの教導によって、次のことが知られましょう。

「阿弥陀仏の見抜かれた人間には「善人」と「悪人」の2種類いるのではなく、「悪人」の1種類しかいない」(もちろん、ここでいう悪人は、倫理道徳や法律上の悪人ということではありません)

そしてこの「仏願の生起」を知れば知るほど、罪悪深重の人間(私)が救われる道は、阿弥陀仏の本願以外にはないと、誰もが弥陀の救いを求めずにいられなくなるのではないでしょうか。

いや、それには阿弥陀仏という仏の偉大さ、パワー(お力)のすごさを知る必要があるかもしれません。事実、釈迦は一切経に阿弥陀仏のことばかり褒め称えておられるので、天台宗の荊渓も「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」と驚いているほどです。

では「大宇宙の仏に見捨てられた罪悪深重の人間」を「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏とは、いかなる仏であるのか。そのお力はいかほどであると説かれているのか。その学びに入っていきましょう。

阿弥陀仏と煩悩具足の凡夫(39)

Posted on 9月 30th, 2015 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。
『御文章(お文)』には「大宇宙の仏方に見捨てられた者」のためと教えられていることを、2帖目8通を通して、お聞きしてきました。
他の『御文章』でも、この「仏願の生起」を、さまざまな表現で蓮如上人は教えてくださっています。善知識の説かれることは、さらに「仏願の生起本末」以外にありませんから、言わずもがなかもしれませんが、まことに弥陀の直説と仰がずにはおれません。その幾つかを、ここに記してみたいと思います。
「先ずわが身は女人なれば、罪深き五障・三従とて浅ましき身にて、既に十方の如来も三世の諸仏にも捨てられたる女人なりけるを、辱くも弥陀如来ひとり、かかる機をすくわんと誓いたまいて、既に四十八願を発したまえり」
(一帖目第十通)
「我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、地獄ならでは赴くべき方もなき身なるを、辱くも弥陀如来ひとり助けんという誓願を発したまえり」
(二帖目第九通)
「この阿弥陀仏と申すは如何ようなる仏ぞ、又いかようなる機の衆生を救いたまうぞというに、三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我等凡夫・女人を、われひとり救わんという大願を発したまいて」
(三帖目第一通)
阿弥陀仏の本願に救われるより、さらに道なし、と知らされるばかりです。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。

『御文章(お文)』には「大宇宙の仏方に見捨てられた者」のためと教えられていることを、2帖目8通を通して、お聞きしてきました。

他の『御文章』でも、この「仏願の生起」を、さまざまな表現で蓮如上人は教えてくださっています。善知識の説かれることは、さらに「仏願の生起本末」以外にありませんから、言わずもがなかもしれませんが、まことに弥陀の直説と仰がずにはおれません。その幾つかを、ここに記してみたいと思います。

「先ずわが身は女人なれば、罪深き五障・三従とて浅ましき身にて、既に十方の如来も三世の諸仏にも捨てられたる女人なりけるを、辱くも弥陀如来ひとり、かかる機をすくわんと誓いたまいて、既に四十八願を発したまえり」

(一帖目第十通)

「我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、地獄ならでは赴くべき方もなき身なるを、辱くも弥陀如来ひとり助けんという誓願を発したまえり」

(二帖目第九通)

「この阿弥陀仏と申すは如何ようなる仏ぞ、又いかようなる機の衆生を救いたまうぞというに、三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我等凡夫・女人を、われひとり救わんという大願を発したまいて」

(三帖目第一通)

阿弥陀仏の本願に救われるより、さらに道なし、と知らされるばかりです。

阿弥陀仏と煩悩具足の凡夫(37)

Posted on 7月 2nd, 2015 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。
『御文章(お文)』には「大宇宙の仏方に見捨てられた者」のためと教えられています。
「それ、十悪・五逆の罪人も(乃至)空しく皆、十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」(2帖目8通)
「大宇宙の仏方に見捨てられた者」とはどんな者でしょうか。『御文章』には「十悪・五逆の罪人」といわれ、本願では「唯除五逆誹謗正法」(五逆と謗法の者)と説かれています。前回に続き、謗法罪について、みてみましょう。
仏法で最も恐ろしい罪とされるのが謗法罪です。謗法罪とは、真実の仏法を謗ったり、非難することをいいます。古今東西の人類が救われるただ一本の道を説き明かされているのが仏法であり、その仏法を謗り非難することは、全人類が救われるたった一本の道を破壊し、幾億兆の人を不幸のドン底へ突き落とすのと同じですから、これ以上恐ろしい罪はないと教えられることを前回、お話ししていました。
しかし「仏法も鉄砲もあるか」「仏教なんて迷信だ、邪教だ」とののしる者だけが、謗法の大罪を造っているのではありません。親鸞聖人は、こう戒められています。
〝仏法の先生を謗ったり軽んじたり、仏法の友を侮ることはあさましい謗法罪・五逆罪の人である。慣れ親しんではならない。善導大師も「悪を好む人からは慎んで遠ざかるべきで近づいてはならぬ」と教えていられる。親しみ近づくべきは、仏教の先生、法友であると説かれている〟
(原文)
「師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんど仕あわせたまう由、聞き候こそ浅ましく候え。すでに謗法の人なり、五逆の人なり、なれ睦ぶべからず。(乃至)
「かように悪をこのまん人には慎みて遠ざかれ、近づくべからず」とこそ説かれて候え。「善知識・同行には親しみ近づけ」とこそ説きおかれて候え」(末灯鈔)
このように親鸞聖人は、仏教の先生を謗ったり軽んじたり、仏法者をバカにすることの恐ろしさを教えられ、そんな悪縁に近づくことを厳に戒められています。
さらに聖人は、
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり」(末灯鈔)
とも教えられています。
「善知識」や「師」とは、真実の仏法を説かれる先生のことですから、真実の仏法を説かれる先生をおろそかに思うことも謗法の罪なのです。
仏法を聞きに来ておりながら、居眠り半分で聞いているのは、善知識をおろそかに思っている表れでしょう。善知識を尊く思えば、居眠りなどできるはずがないからです。
また、「聞いても分からん。どれだけ聞けばよいのだ」とか「聞かなければよかった」などと不平を言っているのも善知識をおろそかに思っての謗法罪です。
それだけではありません。「今日の話は長かった」「短かった」と批評するのも、善知識の教えを評価しているのですから謗法罪です。なぜなら、先生は子供の答案の善し悪しが分かりますが、子供は先生の答案の善し悪しが分かりませんから採点できません。善知識の説かれる教えを「ああだ」「こうだ」と採点しているのは、説かれる善知識の上に立っているのですから、善知識をおろそかにしていることに違いありません。
恐ろしいこの謗法罪を造っていない人は、一体いるのでしょうか。
阿弥陀仏は、私たちすべての人間をこのような「五逆・謗法の極悪人」と見抜かれたのです。この五逆・謗法の者を「逆謗」といわれます。
では逆謗の私たちは助からないのか。そうではありません。こんな諸仏に捨てられた者をこそ「我ひとり、助ける」と立ち上がられたのが、本師本仏の阿弥陀仏なのです。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。

『御文章(お文)』には「大宇宙の仏方に見捨てられた者」のためと教えられています。

「それ、十悪・五逆の罪人も(乃至)空しく皆、十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」(2帖目8通)

「大宇宙の仏方に見捨てられた者」とはどんな者でしょうか。『御文章』には「十悪・五逆の罪人」といわれ、本願では「唯除五逆誹謗正法」(五逆と謗法の者)と説かれています。前回に続き、謗法罪について、みてみましょう。

仏法で最も恐ろしい罪とされるのが謗法罪です。謗法罪とは、真実の仏法を謗ったり、非難することをいいます。古今東西の人類が救われるただ一本の道を説き明かされているのが仏法であり、その仏法を謗り非難することは、全人類が救われるたった一本の道を破壊し、幾億兆の人を不幸のドン底へ突き落とすのと同じですから、これ以上恐ろしい罪はないと教えられることを前回、お話ししていました。

しかし「仏法も鉄砲もあるか」「仏教なんて迷信だ、邪教だ」とののしる者だけが、謗法の大罪を造っているのではありません。親鸞聖人は、こう戒められています。

〝仏法の先生を謗ったり軽んじたり、仏法の友を侮ることはあさましい謗法罪・五逆罪の人である。慣れ親しんではならない。善導大師も「悪を好む人からは慎んで遠ざかるべきで近づいてはならぬ」と教えていられる。親しみ近づくべきは、仏教の先生、法友であると説かれている〟

(原文)

「師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなずりなんど仕あわせたまう由、聞き候こそ浅ましく候え。すでに謗法の人なり、五逆の人なり、なれ睦ぶべからず。(乃至)

「かように悪をこのまん人には慎みて遠ざかれ、近づくべからず」とこそ説かれて候え。「善知識・同行には親しみ近づけ」とこそ説きおかれて候え」(末灯鈔)

このように親鸞聖人は、仏教の先生を謗ったり軽んじたり、仏法者をバカにすることの恐ろしさを教えられ、そんな悪縁に近づくことを厳に戒められています。

さらに聖人は、

「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり」(末灯鈔)

とも教えられています。

「善知識」や「師」とは、真実の仏法を説かれる先生のことですから、真実の仏法を説かれる先生をおろそかに思うことも謗法の罪なのです。

仏法を聞きに来ておりながら、居眠り半分で聞いているのは、善知識をおろそかに思っている表れでしょう。善知識を尊く思えば、居眠りなどできるはずがないからです。

また、「聞いても分からん。どれだけ聞けばよいのだ」とか「聞かなければよかった」などと不平を言っているのも善知識をおろそかに思っての謗法罪です。

それだけではありません。「今日の話は長かった」「短かった」と批評するのも、善知識の教えを評価しているのですから謗法罪です。なぜなら、先生は子供の答案の善し悪しが分かりますが、子供は先生の答案の善し悪しが分かりませんから採点できません。善知識の説かれる教えを「ああだ」「こうだ」と採点しているのは、説かれる善知識の上に立っているのですから、善知識をおろそかにしていることに違いありません。

恐ろしいこの謗法罪を造っていない人は、一体いるのでしょうか。

阿弥陀仏は、私たちすべての人間をこのような「五逆・謗法の極悪人」と見抜かれたのです。この五逆・謗法の者を「逆謗」といわれます。

では逆謗の私たちは助からないのか。そうではありません。こんな諸仏に捨てられた者をこそ「我ひとり、助ける」と立ち上がられたのが、本師本仏の阿弥陀仏なのです。

阿弥陀仏と煩悩具足の凡夫(36)

Posted on 6月 5th, 2015 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか。蓮如上人の『御文章(お文)』2帖目8通には「それ、十悪・五逆の罪人も(乃至)空しく皆、十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」と教えられています。大宇宙の仏方が何とか救ってやりたいと慈悲心をおこしてくだされたが、とても助けることはできないとさじを投げられた者とはどんな者か。本願に「唯除五逆誹謗正法」と説かれています。今回は謗法罪について、みてみましょう。
仏法で最も恐ろしい罪とされるのが謗法罪です。大恩ある親を殺したり、多くの人を殺すのも大変恐ろしい罪ですが、もっと恐ろしいのが謗法罪です。だから謗法罪は、最も苦しみの激しい無間地獄へ堕つる無間業と教えられています。
では謗法の罪とは、どんなことをいうのでしょうか。謗法罪とは、真実の仏法を謗ったり、非難することをいいます。なぜ仏法を謗ったり、非難することが、そんなに恐ろしい罪なのかと思われるかもしれませんが、それは仏教とはどんな教えかを知れば、お分かりになると思います。
今日も多くの人に尊敬されている聖徳太子は、有名な十七条憲法に仏教を、「四生の終帰、万国の極宗」と言われています。「四生」とは、生きとし生けるものすべてのこと。「終帰」とは最後、帰依するところという意味です。人は色々なものを信じて生きています。金があれば、財があれば、地位が上がれば、結婚すれば幸せになれる、満足できると固く信じています。確かにいずれも幸せを与えてくれるものですが、残念なことに、それらは皆、一時的な喜びにすぎず、長くは続きません。これらの幸福に浸っても、決してそこで満足し切れるものではありません。「これこそ真実」と信じた思想も宗教も、やがて満たされぬ心に驚き、離れる時がやってきます。ところが、弥陀の本願に救い摂られた人は、生きてよし、死んでよし。この世から未来永遠変わらない大満足の世界に生かされます。私たちをこの世から絶対の幸福に救ってくだされる唯一のお方が、阿弥陀仏だからです。
「四生の終帰」と聖徳太子が断言されているように、真実の仏法は古今東西の全人類が救われるたった一本の道ですから、「万国の極宗」ともいわれているのです。そんな仏教を謗り非難することは、全人類が救われるたった一本の道を破壊することですから、こんな恐ろしいことはありません。
この世の法を破っても大変な目に遭います。例えば交通法規を破って信号を無視したり、高速道路を逆走すれば、どんな悲劇に見舞われるか。人間の都合で作った法規を破ってさえ大変な悪果がやってきます。まして真実の法を謗り、破壊することは、幾億兆の人を不幸のドン底へ突き落とすことになりますから、これ以上恐ろしい罪はないと教えられるのです。次回続けて、親鸞聖人のお言葉をお聞きしてみましょう。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか。蓮如上人の『御文章(お文)』2帖目8通には「それ、十悪・五逆の罪人も(乃至)空しく皆、十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり」と教えられています。大宇宙の仏方が何とか救ってやりたいと慈悲心をおこしてくだされたが、とても助けることはできないとさじを投げられた者とはどんな者か。本願に「唯除五逆誹謗正法」と説かれています。今回は謗法罪について、みてみましょう。

仏法で最も恐ろしい罪とされるのが謗法罪です。大恩ある親を殺したり、多くの人を殺すのも大変恐ろしい罪ですが、もっと恐ろしいのが謗法罪です。だから謗法罪は、最も苦しみの激しい無間地獄へ堕つる無間業と教えられています。

では謗法の罪とは、どんなことをいうのでしょうか。謗法罪とは、真実の仏法を謗ったり、非難することをいいます。なぜ仏法を謗ったり、非難することが、そんなに恐ろしい罪なのかと思われるかもしれませんが、それは仏教とはどんな教えかを知れば、お分かりになると思います。

今日も多くの人に尊敬されている聖徳太子は、有名な十七条憲法に仏教を、「四生の終帰、万国の極宗」と言われています。「四生」とは、生きとし生けるものすべてのこと。「終帰」とは最後、帰依するところという意味です。人は色々なものを信じて生きています。金があれば、財があれば、地位が上がれば、結婚すれば幸せになれる、満足できると固く信じています。確かにいずれも幸せを与えてくれるものですが、残念なことに、それらは皆、一時的な喜びにすぎず、長くは続きません。これらの幸福に浸っても、決してそこで満足し切れるものではありません。「これこそ真実」と信じた思想も宗教も、やがて満たされぬ心に驚き、離れる時がやってきます。ところが、弥陀の本願に救い摂られた人は、生きてよし、死んでよし。この世から未来永遠変わらない大満足の世界に生かされます。私たちをこの世から絶対の幸福に救ってくだされる唯一のお方が、阿弥陀仏だからです。

「四生の終帰」と聖徳太子が断言されているように、真実の仏法は古今東西の全人類が救われるたった一本の道ですから、「万国の極宗」ともいわれているのです。そんな仏教を謗り非難することは、全人類が救われるたった一本の道を破壊することですから、こんな恐ろしいことはありません。

この世の法を破っても大変な目に遭います。例えば交通法規を破って信号を無視したり、高速道路を逆走すれば、どんな悲劇に見舞われるか。人間の都合で作った法規を破ってさえ大変な悪果がやってきます。まして真実の法を謗り、破壊することは、幾億兆の人を不幸のドン底へ突き落とすことになりますから、これ以上恐ろしい罪はないと教えられるのです。次回続けて、親鸞聖人のお言葉をお聞きしてみましょう。