阿弥陀仏の本願と名号(3)

Posted on 6月 17th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

親鸞聖人は『正信偈』に「本願の名号は正定の業なり」と教えられています。
最初の「本願」とは「阿弥陀仏の本願」のこと。大宇宙のすべての仏を仏にならしめた本師本仏の阿弥陀仏のなされているお約束です。大宇宙の仏方にもそれぞれ本願がありますが、「本願」といえば「阿弥陀仏の本願」のことになるのは、弥陀の本願が他の仏の本願にズバ抜けて尊く素晴らしいからです。そのお約束とは「どんな人をも、平生に絶対の幸福に救い摂り、必ず極楽浄土へ生まれさせる」という命を懸けたお誓いです。
次に「名号」とは、阿弥陀仏が、自らの約束を果たされるために、兆載永劫のご修行をなされて完成してくだされた「南無阿弥陀仏」の六字のことです。これを親鸞聖人は『正信偈』に「本願の名号」(阿弥陀仏の本願によって創られた南無阿弥陀仏の名号)と言われているのです。
他の仏にはとても創ることのできない威神功徳不可思議の名号ですから、すべての仏が「南無阿弥陀仏」の偉大なお力を絶賛されています。
親鸞聖人は「不可称不可説不可思議の功徳」と仰り、蓮如上人はまた、この「南無阿弥陀仏」を「真実の宝」と言われています。
「当流の真実の宝というは南無阿弥陀仏」(御一代記聞書)
この世に宝といわれるものはいろいろあるでしょう。高価な宝石や金塊、かわいいわが子や、彼氏彼女からのプレゼントを宝物にしている人もあるかもしれません。宝とは、その人に喜びや満足を与えてくれるもの。ところが、その大事な宝も、いつまでも私に幸福感を与えてくれるものではありません。たとえどんなに大事にしている宝も、いよいよ死んでいく時は、すべてこの世に置いていかねばなりません。私たちが人間に生まれてきたのは、そんな宝を獲得するためではないのだよ、と仏教では教えられます。
人間に生まれてきた目的は、真実の宝「南無阿弥陀仏」を獲得する一つ。真実の宝とは三世十方を貫き、変わらぬ無上の喜びを与える宝。その真実の宝「南無阿弥陀仏」の大功徳を与えて、絶対の幸福にするために釈迦は仏教を説かれたのであり、一切の仏教書の目的もそれ以外にないことを蓮如上人は「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなり」(御文章5帖)と懇ろに教えられています。

阿弥陀仏の本願と名号(2)

Posted on 5月 30th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

果てしない生死の苦海に溺れる古今東西すべての人は、そのまま人生終われば、死後もまた暗黒の世界に入っていかねばならぬことを、お釈迦さまは「従苦入苦 従冥入冥(苦より苦に入り冥より冥に入る)」と『大無量寿経』に説かれています。未来永劫、苦から離れ切れぬ私たちを哀れに思われた大慈大悲の阿弥陀仏は「どんな人も必ず絶対の幸福に助ける」という熱い願いを起こされました。これが「阿弥陀仏の本願」であります。
その誓いを果たすために阿弥陀仏は、不可思議兆載永劫のご修行をなされて、色も形もない広大無辺の大慈悲心を、私たちが受け取れる「名号(南無阿弥陀仏)」として完成されたのだと、お釈迦さま、親鸞聖人は教えられています。
ですから南無阿弥陀仏の名号には「どんな人の心の闇も破壊し、絶対の幸福に救う」不可称、不可説、不可思議のお力があるのです。この南無阿弥陀仏の名号の働きを、蓮如上人は次のように『御文章』に教示されています。
「『南無阿弥陀仏』と申す文字は、その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり」(5帖目13通)
〈南無阿弥陀仏といえば、字数はわずか六字であるから、そんな凄い力があるとは誰も思えないだろう。だがそれは猫に小判、豚に真珠といわれるように、南無阿弥陀仏(名号)の真価を知る知恵がないからである。本当は南無阿弥陀仏の六字の中には、どんな人をも無上の幸福にする、釈迦も説き尽くせなかった計り知れないお力があるのである〉
親鸞聖人は、この南無阿弥陀仏の名号を「苦しみの難度海を、明るく楽しく渡す大船」に例えられ、「大悲の願船」とも仰っています。この「南無阿弥陀仏」の大船に、平生の一念、不可思議の本願力によって乗せていただいたならば、罪業深重、煩悩具足の身は変わらぬまま、大安心・大満足の絶対の幸福に生かされ、来世は必ず無量光明土(阿弥陀仏の極楽浄土)へ往ける身になるのですね。

阿弥陀仏の本願と名号

Posted on 4月 28th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

大宇宙の仏方に見放された罪悪深重の私たちを、「われひとり助けん」と奮い立たれた阿弥陀仏は、「どんな人をも必ず絶対の幸福に助ける」という本願を建てられました。それは諸仏にズバ抜けた阿弥陀仏の絶大なお力なればこそなしうる大宇宙に二つとない超世のお約束であり、無上殊勝の本願であることを学んできました。
そこで、阿弥陀仏は私たちをどのようにして絶対の幸福に救うと誓われているのでしょうか。阿弥陀仏が自らの誓いを果たすためにつくられたのが、「南無阿弥陀仏」の名号であります。弥陀は極悪の十方衆生に「私のつくった名号(南無阿弥陀仏)を与えて救う」と誓われているのです。
阿弥陀仏が十方衆生を救済するために名号を完成された経緯は、肉体の病でいえば、死に至る重い病気で苦しむ多くの患者をみて、何とか救ってやりたいという悲願を起こした一人の医師が、長年の研究と実験の末、ついに治療薬の調合に成功し、その病を撲滅する薬を完成したことに例えられるでしょう。
種痘といえば、エドワード・ジェンナーが有名です。最初、彼は鳥類の研究に没頭していましたが、当時、天然痘で苦しむ多くの人々を見聞して「それらの人を救いたい」という大きな悲願を起こしました。
ジェンナーは、まず天然痘に感染して一旦癒えた人は二度と罹らない事実を確認。名医ハンターに激励され、周到な考察と実験を重ね、わが子に予防法を試みます。また牛痘に感染した乳しぼりの女の手から膿を採取し、8歳の児童の腕に植えもしました。かくて盤石の自信で世に発表するや、「牛痘を植えると角が生える」などの笑止千万な反対運動や非難中傷が巻き起こりましたが、彼は挫けず、骨身惜しまず努力します。その結果、1979年、世界保健機関は、天然痘根絶を宣言するに至りました。ジェンナーの「天然痘で苦しむ人を無くしたい」悲願が、「種痘法」を生みだし、19世紀だけでも数千万の人々が、このいまわしい病苦から救われたのです。
いくら病気を治す原理が宇宙に存在しても、それを発見し、それに則って薬を作る医師がなければ患者は救われません。宇宙の真理を体得した阿弥陀仏が、すべての人の苦悩を抜き取り、絶対の幸福に救いたいという大悲願によって、名号(南無阿弥陀仏)は完成されたのです。まさに名号(南無阿弥陀仏)は「万人の苦悩を除き、永遠の幸福にする」大妙薬に例えられましょう。

阿弥陀仏の本願力(5)

Posted on 3月 11th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重の私たちを「われひとり助けん」と奮い立たれ、どんな人をも必ず絶対の幸福に救うという、世を超えた誓いをたてられているのが、阿弥陀仏といわれる仏であることを学んでいます。そのいきさつを、蓮如上人の『御文章』3帖目1通にお聞きしてみましょう。
「この阿弥陀仏と申すは、いかようなる仏ぞ、また、いかようなる機の衆生を救いたまうぞというに、三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫・女人を、われひとり救わんという大願を発したまいて、五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、それ「衆生の罪においては、いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救わん」と誓いましまして、既に諸仏の悲願に超え勝れたまいて、その願成就して阿弥陀如来とは成らせたまえるを、即ち阿弥陀仏とは申すなり」
「三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫」とは、煩悩に煩い悩まされ、生死の苦海でもだえ苦しんでいる私たちのこと。そんな私たちをご覧ぜられ、何とかして助けてやりたいという大慈悲心から願いを起こされた阿弥陀仏が、どうしたら極悪の十方衆生を救うことができるか、と「五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して」、五劫思惟と兆載永劫のご修行によって「いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救」いたまう準備を完了してくだされたのです。
肉体の病でいえば、死に至る重い病気で苦しむ多くの患者をみて、何とか救ってやりたいという悲願を起こした一人の医師が、長年の研究と実験の末、ついに治療薬の調合に成功し、その病を撲滅する薬が完成したことに例えられるでしょうか。
大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重の私たちを「われひとり助けん」と奮い立たれ、どんな人をも必ず絶対の幸福に救うという、世を超えた誓いをたてられているのが、阿弥陀仏といわれる仏であることを学んでいます。そのいきさつを、蓮如上人の『御文章』3帖目1通にお聞きしてみましょう。
「この阿弥陀仏と申すは、いかようなる仏ぞ、また、いかようなる機の衆生を救いたまうぞというに、三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫・女人を、われひとり救わんという大願を発したまいて、五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して、それ「衆生の罪においては、いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救わん」と誓いましまして、既に諸仏の悲願に超え勝れたまいて、その願成就して阿弥陀如来とは成らせたまえるを、即ち阿弥陀仏とは申すなり」
「三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我ら凡夫」とは、煩悩に煩い悩まされ、生死の苦海でもだえ苦しんでいる私たちのこと。そんな私たちをご覧ぜられ、何とかして助けてやりたいという大慈悲心から願いを起こされた阿弥陀仏が、どうしたら極悪の十方衆生を救うことができるか、と「五劫が間これを思惟し、永劫が間これを修行して」、五劫思惟と兆載永劫のご修行によって「いかなる十悪五逆・謗法闡提の輩なりというとも救」いたまう準備を完了してくだされたのです。
肉体の病でいえば、死に至る重い病気で苦しむ多くの患者をみて、何とか救ってやりたいという悲願を起こした一人の医師が、長年の研究と実験の末、ついに治療薬の調合に成功し、その病を撲滅する薬が完成したことに例えられるでしょうか。

阿弥陀仏の本願力(4)

Posted on 2月 15th, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重の私たちを「われひとり助けん」と奮い立たれた阿弥陀仏は、すべての人を等しく真実の幸福に救うという、世を超えた本願(お約束)を建てられました。その弥陀の本願に救い摂られ、阿弥陀仏の本願によらねば、すべての人は救われないことを明らかにしていかれた方が親鸞聖人でした。『正信偈』冒頭にも、弥陀に救い摂られたご自身のことを、こう宣言されています。
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)
「無量寿如来」も「不可思議光」も阿弥陀仏の別名であり、「帰命」「南無」は「救われた」ことですから、「親鸞は、阿弥陀仏に救われた、親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ」と、繰り返し仰って、『正信偈』を書き始められています。
ここで「阿弥陀仏に救われた」とはどういうことか、確認しなければならないと思います。「阿弥陀仏に救われる」と聞くと、阿弥陀仏という仏さまが、私の首ねっこをつかまえて、ポーンと極楽浄土へ放り込まれるようなイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。「阿弥陀仏に救われる」とは、「阿弥陀仏の本願に救われる」ということであり「弥陀の本願に疑い晴れる」ことです。
阿弥陀仏は「どんな人をも必ず往生一定(絶対の幸福)に救う」というお約束をなされています。本願には、その約束を果たす力、本願力があります。蓮如上人の「聖人一流の章」に「不可思議の願力として仏の方より往生は治定せしめたまう」と教えられている「不可思議の願力」です。その弥陀の本願力によって往生一定(往生治定)になった時が、往生一定に救うという弥陀の誓い、まことだったとはっきりした時。その時のことを親鸞聖人は「誠なるかなや、摂取不捨の真言」(弥陀の本願、まことだった)と表明されています。これが弥陀の救いの決勝点です。
阿弥陀仏の本願を聞かなければ、本願に対する疑いもなければ、その疑いが晴れる(救われる)ということもありません。だから仏願(阿弥陀仏の本願)の生起本末を聞かせていただかなければならないのですね。「仏法は聴聞に極まる」の蓮如上人のご教導に、うなずくばかりです。
大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重の私たちを「われひとり助けん」と奮い立たれた阿弥陀仏は、すべての人を等しく真実の幸福に救うという、世を超えた本願(お約束)を建てられました。その弥陀の本願に救い摂られ、阿弥陀仏の本願によらねば、すべての人は救われないことを明らかにしていかれた方が親鸞聖人でした。『正信偈』冒頭にも、弥陀に救い摂られたご自身のことを、こう宣言されています。
「帰命無量寿如来
南無不可思議光」
(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)
「無量寿如来」も「不可思議光」も阿弥陀仏の別名であり、「帰命」「南無」は「救われた」ことですから、「親鸞は、阿弥陀仏に救われた、親鸞は、阿弥陀仏に救われたぞ」と、繰り返し仰って、『正信偈』を書き始められています。
ここで「阿弥陀仏に救われた」とはどういうことか、確認しなければならないと思います。「阿弥陀仏に救われる」と聞くと、阿弥陀仏という仏さまが、私の首ねっこをつかまえて、ポーンと極楽浄土へ放り込まれるようなイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。「阿弥陀仏に救われる」とは、「阿弥陀仏の本願に救われる」ということであり「弥陀の本願に疑い晴れる」ことです。
阿弥陀仏は「どんな人をも必ず往生一定(絶対の幸福)に救う」というお約束をなされています。本願には、その約束を果たす力、本願力があります。蓮如上人の「聖人一流の章」に「不可思議の願力として仏の方より往生は治定せしめたまう」と教えられている「不可思議の願力」です。その弥陀の本願力によって往生一定(往生治定)になった時が、往生一定に救うという弥陀の誓い、まことだったとはっきりした時。その時のことを親鸞聖人は「誠なるかなや、摂取不捨の真言」(弥陀の本願、まことだった)と表明されています。これが弥陀の救いの決勝点です。
阿弥陀仏の本願を聞かなければ、本願に対する疑いもなければ、その疑いが晴れる(救われる)ということもありません。だから仏願(阿弥陀仏の本願)の生起本末を聞かせていただかなければならないのですね。「仏法は聴聞に極まる」の蓮如上人のご教導に、うなずくばかりです。

阿弥陀仏の本願力(3)

Posted on 1月 21st, 2016 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重・煩悩具足の私たちを、「われひとり助ける」と誓われた本師本仏の阿弥陀仏。その阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は『教行信証』冒頭に「難度の海を度する大船」と例えられ、「大悲の願船」と喝破されています。親鸞聖人九十年のみ教えは、この大悲の願船の厳存と、乗り方以外にはありません。しかし、自分のような者が本当に救われるのかと、二の足を踏む人もあるでしょう。聖人は、何の心配も要らないと、こう励ましておられます。
「願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず」
「大悲の願船のお力は無限だから、いかに罪が深く重くとも、全く問題にならない。広大無辺な本願の大船は、心の散乱したデタラメな者も、捨てず裁かず、救い摂ってくださるのである」
弥陀は五劫の思惟で十方衆生を徹底精査なされ、「煩悩具足の凡夫」と診断されています。欲や怒り、ねたみそねみなど百八の煩悩の塊が人間だと、とうの昔に見抜かれているのです。一生、悪しか造れない、煩悩百パーセントの我々を、親鸞聖人は罪の極めて深く重い「罪業深重」の者と言われています。これはすべての人の姿ですから、72億の人がいても、例外は一人もありません。「あの人よりは、まだ罪が軽い」とうぬぼれているのは、人間の目線です。十方衆生を「罪業深重」と知り抜かれた弥陀が、全て計算の末に造られた大船が「大悲の願船」ですから、全人類の罪を一人で抱えていても、救われるのです。どんなに罪の重い人が乗っても、大船は微動だにしません。だから早く乗りなさいよと、聖人は生涯、教え続けていかれたのですね。
大宇宙の諸仏に見放された罪悪深重・煩悩具足の私たちを、「われひとり助ける」と誓われた本師本仏の阿弥陀仏。その阿弥陀仏の本願を、親鸞聖人は『教行信証』冒頭に「難度の海を度する大船」と例えられ、「大悲の願船」と喝破されています。親鸞聖人九十年のみ教えは、この大悲の願船の厳存と、乗り方以外にはありません。しかし、自分のような者が本当に救われるのかと、二の足を踏む人もあるでしょう。聖人は、何の心配も要らないと、こう励ましておられます。
「願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず」
「大悲の願船のお力は無限だから、いかに罪が深く重くとも、全く問題にならない。広大無辺な本願の大船は、心の散乱したデタラメな者も、捨てず裁かず、救い摂ってくださるのである」
弥陀は五劫の思惟で十方衆生を徹底精査なされ、「煩悩具足の凡夫」と診断されています。欲や怒り、ねたみそねみなど百八の煩悩の塊が人間だと、とうの昔に見抜かれているのです。一生、悪しか造れない、煩悩百パーセントの我々を、親鸞聖人は罪の極めて深く重い「罪業深重」の者と言われています。これはすべての人の姿ですから、72億の人がいても、例外は一人もありません。「あの人よりは、まだ罪が軽い」とうぬぼれているのは、人間の目線です。十方衆生を「罪業深重」と知り抜かれた弥陀が、全て計算の末に造られた大船が「大悲の願船」ですから、全人類の罪を一人で抱えていても、救われるのです。どんなに罪の重い人が乗っても、大船は微動だにしません。だから早く乗りなさいよと、聖人は生涯、教え続けていかれたのですね。

阿弥陀仏の本願力(2)

Posted on 12月 10th, 2015 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。「大宇宙の仏方に見放された罪悪深重・煩悩具足の私たちのため」でした。そんな救いようのない凡愚底下のつみびとを「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏は、いかなるお力をもっていらっしゃるのでしょうか。
仏教では、仏さまの念力、仏力を光明(智慧)といいます。私たちの目に見えない仏さまの大願業力、大念力をいうのですね。仏は光明と寿命、智慧と慈悲の覚体といわれますのは、私たちを救わんとするお力を持っていられることをいうのですが、阿弥陀仏が「本師本仏」と崇められ、諸仏の王といわれるのは、弥陀の光明・智慧が、諸仏にズバ抜けているからにほかなりません。
それを、お釈迦さまは『大無量寿経』に、
「無量寿仏の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざるところなり」
(阿弥陀仏の光明は、大宇宙最高であり、十方の諸仏の光明の遠く及ばぬ勝れた光明である)
と明示され、親鸞聖人も、
「無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり」(浄土和讃)
(阿弥陀仏の光明(智慧)は無量で、十方の諸仏が見捨てた私たちを救うお力(智慧)を持っていられるから、一切の諸仏や菩薩方は阿弥陀仏を智慧光仏といって、褒め称えていられるのである)
と教えられています。
私たちの罪悪の重さと弥陀のお力とは、どちらがどうなのか。次に親鸞聖人にお聞きしてみましょう。
阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。それは「大宇宙の仏方に見放された罪悪深重・煩悩具足の私たちのため」でありました。そんな救いようのない凡愚底下のつみびとを、「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏は、いかなるお力をもっていらっしゃるのでしょうか。
仏教では、仏さまの念力、仏力を光明(智慧)といいます。私たちの目に見えない仏さまの大願業力、大念力をいうのですね。仏は光明と寿命、智慧と慈悲の覚体といわれますのは、私たちを救わんとするお力を持っていられることをいうのですが、阿弥陀仏が「本師本仏」と崇められ、諸仏の王といわれるのは、弥陀の光明・智慧が、諸仏にズバ抜けているからにほかなりません。
それを、お釈迦さまは『大無量寿経』に、
「無量寿仏の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざるところなり」
(阿弥陀仏の光明は、大宇宙最高であり、十方の諸仏の光明の遠く及ばぬ勝れた光明である)
と明示され、親鸞聖人も、
「無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆
ともに嘆誉したまえり」(浄土和讃)
(阿弥陀仏の光明(智慧)は無量で、十方の諸仏が見捨てた私たちを救うお力(智慧)を持っていられるから、一切の諸仏や菩薩方は阿弥陀仏を智慧光仏といって、褒め称えていられるのである)
と教えられています。
では、その弥陀のお力と、私たちの罪悪の重さでは、どちらがどうなのか。次にお聞きしてみましょう。

阿弥陀仏の本願力(1)

Posted on 11月 30th, 2015 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。それは「大宇宙の仏方に見捨てられた罪悪深重の私たちの人ため」であることを、お聞きしてきました。
そんな諸仏に捨てられた罪悪深重の者を「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏とは、いかほどのお力をもっていらっしゃるのでしょうか。
それを知るはじめに、親鸞会の高森先生の著書『なぜ生きる2』の一部を、引用したいと思います。
<以下引用>
先生が「太陽と月と、どちらが偉大か」と聞くと、生徒が答えた。
「それは月です。月は闇夜を照らしてくれますが、太陽はもともと明るいところを照らすだけです」
『世界のジョーク事典』の笑話だが、阿弥陀仏とお釈迦さまと、どちらが偉大か。まずお伝えしなければならない。
親鸞聖人は、阿弥陀仏について、こう説かれている。
大宇宙には、数え切れない仏(諸仏)がましますが、阿弥陀仏のお力は、それらの諸仏の絶讃を浴びている。
弥陀の偉大さは、諸仏と比較にならない別格だ。この阿弥陀仏のお力によらねば、罪悪深重の十方衆生(すべての人)は絶対に救われないのである。
弥陀一仏に、一向一心にならねばならない。
以下は、その文証である。
仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ(浄土和讃)
これは決して、親鸞聖人の独断ではない。
釈迦の経典には、阿弥陀仏を称賛する声が、高く多く説き重ねられている。
ほんの数例を、挙げておこう。
阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王様だ。
「阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり」(大阿弥陀経)
諸仏の中で阿弥陀仏のお力は、最高無上である。
「諸仏光明の王、光明の中の最極尊なり」(平等覚経)
十方衆生(すべての人)は、煩悩具足で罪悪深重だから、阿弥陀仏一仏を専念せよ。
「無量寿仏に一向専念せよ」(『大無量寿経』下巻)
親鸞聖人の尊敬される善導大師は、〝十方諸仏の国は、すべて阿弥陀仏の国である〟と断定的である。
「十方諸仏の国は、尽く是れ法王の家」(往生礼讃)
蓮如上人も、阿弥陀仏は諸仏の本師本仏であることを、懇ろに教導されている。
「阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師・師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏の、これを喜びたまわざるべきや。この謂を以て、よくよく心得べし」(『御文章』二帖目九通)
前掲の『世界のジョーク事典』の笑話で言えば、日光を受けての月光だから、いよいよ阿弥陀仏は、諸仏の本師本仏(師匠)であることは明白であろう。
<引用ここまで>
阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。それは「大宇宙の仏方に見捨てられた罪悪深重の私たちのため」であることを、お聞きしてきました。
そんな諸仏に捨てられた罪悪深重の者を「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏とは、いかほどのお力をもっていらっしゃるのでしょうか。
それを知るはじめに、親鸞会の高森先生の著書『なぜ生きる2』の一部を、引用したいと思います。
<以下引用>
先生が「太陽と月と、どちらが偉大か」と聞くと、生徒が答えた。
「それは月です。月は闇夜を照らしてくれますが、太陽はもともと明るいところを照らすだけです」
『世界のジョーク事典』の笑話だが、阿弥陀仏とお釈迦さまと、どちらが偉大か。まずお伝えしなければならない。
親鸞聖人は、阿弥陀仏について、こう説かれている。
大宇宙には、数え切れない仏(諸仏)がましますが、阿弥陀仏のお力は、それらの諸仏の絶讃を浴びている。
弥陀の偉大さは、諸仏と比較にならない別格だ。この阿弥陀仏のお力によらねば、罪悪深重の十方衆生(すべての人)は絶対に救われないのである。
弥陀一仏に、一向一心にならねばならない。
以下は、その文証である。
仏光照曜最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ(浄土和讃)
これは決して、親鸞聖人の独断ではない。
釈迦の経典には、阿弥陀仏を称賛する声が、高く多く説き重ねられている。
ほんの数例を、挙げておこう。
阿弥陀仏は、大宇宙にまします多くの仏方の王様だ。
「阿弥陀仏は、諸仏の中の王なり」(大阿弥陀経)
諸仏の中で阿弥陀仏のお力は、最高無上である。
「諸仏光明の王、光明の中の最極尊なり」(平等覚経)
十方衆生(すべての人)は、煩悩具足で罪悪深重だから、阿弥陀仏一仏を専念せよ。
「無量寿仏に一向専念せよ」(『大無量寿経』下巻)
親鸞聖人の尊敬される善導大師は、〝十方諸仏の国は、すべて阿弥陀仏の国である〟と断定的である。
「十方諸仏の国は、尽く是れ法王の家」(往生礼讃)
蓮如上人も、阿弥陀仏は諸仏の本師本仏であることを、懇ろに教導されている。
「阿弥陀如来は、三世諸仏のためには本師・師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏の、これを喜びたまわざるべきや。この謂を以て、よくよく心得べし」(『御文章』二帖目九通)
前掲の『世界のジョーク事典』の笑話で言えば、日光を受けての月光だから、いよいよ阿弥陀仏は、諸仏の本師本仏(師匠)であることは明白であろう。
<引用ここまで>

阿弥陀仏と煩悩具足の凡夫(40)

Posted on 10月 31st, 2015 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。
『本願』には「逆謗の屍の十方衆生のため」と説かれ、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがため」(1章)、「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがため」(9章)、『御文章(お文)』には「大宇宙の仏方に見捨てられた私たち凡夫のため」等と教えられていることを、お聞きしてきました。これらの教導によって、次のことが知られましょう。
「阿弥陀仏の見抜かれた人間には「善人」と「悪人」の2種類いるのではなく、「悪人」の1種類しかいない」(もちろん、ここでいう悪人は、倫理道徳や法律上の悪人ということではありません)
そしてこの「仏願の生起」を知れば知るほど、罪悪深重の人間(私)が救われる道は、阿弥陀仏の本願以外にはないと、誰もが弥陀の救いを求めずにいられなくなるのではないでしょうか。
いや、それには阿弥陀仏という仏の偉大さ、パワー(お力)のすごさを知る必要があるかもしれません。事実、釈迦は一切経に阿弥陀仏のことばかり褒め称えておられるので、天台宗の荊渓も「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」と驚いているほどです。
では「大宇宙の仏に見捨てられた罪悪深重の人間」を「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏とは、いかなる仏であるのか。そのお力はいかほどであると説かれているのか。その学びに入っていきましょう。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。

『本願』には「逆謗の屍の十方衆生のため」と説かれ、『歎異抄』には「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがため」(1章)、「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごときのわれらがため」(9章)、『御文章(お文)』には「大宇宙の仏方に見捨てられた私たち凡夫のため」等と教えられていることを、お聞きしてきました。これらの教導によって、次のことが知られましょう。

「阿弥陀仏の見抜かれた人間には「善人」と「悪人」の2種類いるのではなく、「悪人」の1種類しかいない」(もちろん、ここでいう悪人は、倫理道徳や法律上の悪人ということではありません)

そしてこの「仏願の生起」を知れば知るほど、罪悪深重の人間(私)が救われる道は、阿弥陀仏の本願以外にはないと、誰もが弥陀の救いを求めずにいられなくなるのではないでしょうか。

いや、それには阿弥陀仏という仏の偉大さ、パワー(お力)のすごさを知る必要があるかもしれません。事実、釈迦は一切経に阿弥陀仏のことばかり褒め称えておられるので、天台宗の荊渓も「諸教に讃ずるところ、多く弥陀にあり」と驚いているほどです。

では「大宇宙の仏に見捨てられた罪悪深重の人間」を「われひとり助ける」と誓われた阿弥陀仏とは、いかなる仏であるのか。そのお力はいかほどであると説かれているのか。その学びに入っていきましょう。

阿弥陀仏と煩悩具足の凡夫(39)

Posted on 9月 30th, 2015 by longbeach in 阿弥陀仏の本願とは | コメントは受け付けていません。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。
『御文章(お文)』には「大宇宙の仏方に見捨てられた者」のためと教えられていることを、2帖目8通を通して、お聞きしてきました。
他の『御文章』でも、この「仏願の生起」を、さまざまな表現で蓮如上人は教えてくださっています。善知識の説かれることは、さらに「仏願の生起本末」以外にありませんから、言わずもがなかもしれませんが、まことに弥陀の直説と仰がずにはおれません。その幾つかを、ここに記してみたいと思います。
「先ずわが身は女人なれば、罪深き五障・三従とて浅ましき身にて、既に十方の如来も三世の諸仏にも捨てられたる女人なりけるを、辱くも弥陀如来ひとり、かかる機をすくわんと誓いたまいて、既に四十八願を発したまえり」
(一帖目第十通)
「我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、地獄ならでは赴くべき方もなき身なるを、辱くも弥陀如来ひとり助けんという誓願を発したまえり」
(二帖目第九通)
「この阿弥陀仏と申すは如何ようなる仏ぞ、又いかようなる機の衆生を救いたまうぞというに、三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我等凡夫・女人を、われひとり救わんという大願を発したまいて」
(三帖目第一通)
阿弥陀仏の本願に救われるより、さらに道なし、と知らされるばかりです。

阿弥陀仏は、どんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起)。

『御文章(お文)』には「大宇宙の仏方に見捨てられた者」のためと教えられていることを、2帖目8通を通して、お聞きしてきました。

他の『御文章』でも、この「仏願の生起」を、さまざまな表現で蓮如上人は教えてくださっています。善知識の説かれることは、さらに「仏願の生起本末」以外にありませんから、言わずもがなかもしれませんが、まことに弥陀の直説と仰がずにはおれません。その幾つかを、ここに記してみたいと思います。

「先ずわが身は女人なれば、罪深き五障・三従とて浅ましき身にて、既に十方の如来も三世の諸仏にも捨てられたる女人なりけるを、辱くも弥陀如来ひとり、かかる機をすくわんと誓いたまいて、既に四十八願を発したまえり」

(一帖目第十通)

「我が身は極悪深重の浅ましき者なれば、地獄ならでは赴くべき方もなき身なるを、辱くも弥陀如来ひとり助けんという誓願を発したまえり」

(二帖目第九通)

「この阿弥陀仏と申すは如何ようなる仏ぞ、又いかようなる機の衆生を救いたまうぞというに、三世の諸仏に捨てられたる、あさましき我等凡夫・女人を、われひとり救わんという大願を発したまいて」

(三帖目第一通)

阿弥陀仏の本願に救われるより、さらに道なし、と知らされるばかりです。