仏願の生起本末について話をしています。
仏願とは阿弥陀仏の本願。生起とは、どんな者のために阿弥陀仏は本願を建てられたのか。
それは「煩悩具足の凡夫」を助けるためである、と『歎異抄』には、教えられています。
煩悩具足の凡夫とは、煩悩100%の人間ということ。
中でもおそろしいのが、貪欲、瞋恚、愚痴の三つです。これを、三毒の煩悩といわれます。
毒とは身を苦しめるもの。その第一が貪欲です。貪欲とは、欲の心です。
代表的な欲として、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の五欲が教えられています。
食欲とは食べたい飲みたい。財欲とは1円でもお金がほしい。色欲とは男女の欲。
名誉欲とは、人からほめられたい、悪口言われたくない、評価されたい。
睡眠欲は、眠たい、楽がしたいという欲です。朝から晩まで、五欲に振り回されているのが、私たちではないでしょうか。
阿弥陀仏に救われて、本当の自己の姿を知らされた聖人は、『教行信証』に、
「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して……恥ずべし傷むべし」
と述べておられます。
愚禿鸞とは、おろかでばかな親鸞、という意味です。
愛欲の広海に沈没し、とは、人を愛し、愛されたい欲の心が広い海ほどあって、そこに沈没しているということです。
船が座礁しても、へさきが海面から出ていれば、沈没とはいわれませんね。完全に沈みきっていることを沈没といわれます。
聖人さまは、愛欲の広海に沈没している親鸞だ、と仰っています。
次の名利の大山に迷惑して、とは、名利とは、名誉欲と利益欲(財欲)のことです。人からほめられたい、けなされたくたい、ちょっとでもお金がほしいという心は、大きな山ほどあって、親鸞、それに迷惑していると仰っています。
阿弥陀仏の光明に照らされて知らされた煩悩具足の姿を聖人はこのように告白されているのですが、私たちはどうでしょうか。
今回も、仏願の生起本末について、続けましょう。
仏願とは阿弥陀仏の本願です。仏願の生起とは、どんな者のために、阿弥陀仏は本願を建てられたのか。
『歎異抄』には、それを次のように言われています。
「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」(歎異抄1章)
「仏、かねて知ろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごときの我らがためなりけり」(歎異抄9章)
阿弥陀仏はどんな者のために本願を建てられたのか(仏願の生起は)。
それは、「煩悩熾盛の衆生」を助けるためだよ。「煩悩具足の凡夫」を救うと約束されているのだよ、と教えられています。
煩悩具足の凡夫とは何か。煩悩とは、我々を煩わせ悩ませるもの。一人一人が108の煩悩をもっているといわれます。余談ですが、年末、除夜の鐘を108回つくのは、煩悩の数からきているといわれます。子供心に108とは中途半端だなと思ったもの。108突き目の人には景品がもらえてラッキーナンバーかと思っていた人もあるようですが、煩悩の数ですから、ラッキーな数ではありません。代表的な煩悩に、貪欲(欲の心)、瞋恚(怒りの心)、愚痴(うらみねたみそねみの心)があります。
次に、具足とは、「それでできている」ということです。108の煩悩ときくと、人間には、ほかにも何かあるように思うでしょうが、そうではないということです。いわば、煩悩100%。煩悩のほかには何もないのが人間ということです。煩悩のかたまりといってもいいでしょう。煩悩熾盛とは、煩悩がはげしく燃え盛って消えることがない、ということです。そんな煩悩100%の者を目当てに、救うと阿弥陀仏は誓われているのです。
仏願の生起本末について、続けて書いています。
仏願とは、阿弥陀仏の本願。阿弥陀仏の本願は、どんな者のために建てられたのか、ということが、仏願の「生起」です。
それは、大宇宙の諸仏方からとても助けることはできぬと、さじを投げられた「逆謗闡提」の十方衆生(すべての人)がいたからでありました。
それをまた、「苦悩の有情」とも、「後生の一大事」を抱えるすべての人とも述べてきましたが、『御文章』には、「無明業障の恐ろしき病」と教えられています。
この世のことで例えるなら、病人がいるから、なんとかその病気をなおそうと医者が立ち上がって薬を調合するように、「無明業障の恐ろしき病」にかかって、諸仏に見捨てられたすべての人がいたから、本師本仏の阿弥陀仏は、なんとか助けてやりたいと立ち上がられたのだと、蓮如上人は教えられています。
「無明業障の恐ろしき病」とは何でしょうか。
「恐ろしき」といわれているのは、大変な病気にかかっていながら、その自覚がない。肉体のガンでも、気づいた時には、末期で手遅れということがあります。そのように自覚がないということと同時に、すべての人がかかっている、心の底の深いところにある病だからです。いわゆる「うつ」などの精神的な病とは違います。それならば表面上の、この世80年か100年の肉体の病です。しかし、無明業障の心の病は、「三世の業障」とも蓮如上人は言われ、果てしない過去から現在、未来にわたって私を苦しめている迷いの元と教えられているです。だから、「無始よりこのかたの無明業障の恐ろしき病」といわれています。
そんな病に自分がかかっている、と聞いても、すぐにうなずく人はいないでしょう。この心の病は、仏法を真剣に聴聞してはじめて知らされるからです。しかし、このことが分からなければ、仏願の生起が分からず、その病を治すと誓われた阿弥陀仏の本願も、何をなおすといわれているのかが分からないでしょう。仏法を聞くということは、ちょうど「精密検査」を受けることに例えられます。どんな重い病にかかっているのか(仏願の生起)、聞法の場に足を運んで精密検査を受けましょう。
仏願の生起本末について話をしております。
阿弥陀仏はなぜ本願を建てられたのか。
仏願の生起は、助かる縁なき逆謗の屍の十方衆生がお目当てであると述べてきました。
言葉を換えれば苦悩の有情です。「助かる縁なき」者ならば、苦しみから離れきれず、苦から苦への綱渡りをするしかありません。
『大無量寿経』には、「従苦入苦 従冥入冥」(苦より苦に入り、冥より冥に入る)
と説かれています。今、苦しんでいる者は、死んでからも苦しみの世界に入っていかねばならない。
現在が冥(やみ)の生活を送っている人は、死んでからも闇の世界へ入っていかねばならない。
これを「後生の一大事」とも「一大事の後生」ともいわれます。
三世の諸仏が、見捨てて逃げた(十方三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我ら)と蓮如上人が教えられているのも、「後生の一大事」助けることはできないと見捨てられた、ということです。
そして、阿弥陀仏だけが(弥陀にかぎりて)、「われひとり助けん」と立ち上がれたのも、「後生の一大事」われ一人助けてみせるということにほかなりません。
『正信偈』の冒頭に、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(親鸞は阿弥陀仏に救われたぞ、親鸞は阿弥陀仏に助けられたぞ)と叫ばれているのも、「後生の一大事」、弥陀に救われた、助けられた、ということですね。
逆謗闡提の十方衆生は、「後生の一大事」をかかえる者。その一大事を助けるために立ち上がられたのが阿弥陀仏であり、仏願の生起は、私の「後生の一大事」にあることが、うなずけるでしょう。
仏願の生起本末について、つづけて話をしています。
仏願とは「阿弥陀仏の本願」のこと。
生起とは、弥陀が本願を建てられたのは、どんな人のためか。それは、三世諸仏が呆れて逃げた、助かる縁なき逆謗の屍(唯除五逆誹謗正法)が狙いということ。
助かる縁手掛かりのない極悪人とは、別の角度からいえば、苦悩の有情(人)です。苦悩の有情とは、相対的幸福しか知らず、有無同然で、苦しんでいる人といえば、わかりやすいでしょうか。私たちは、どんなことを幸せと感じるでしょう。お金や財産を手にした満足、地位や名誉を得た喜びなど、相対の幸福といって、やがて必ず色あせる幸せしか知りません。
好きな人と結婚した、念願のマイホームが建った、子供が生まれたといっても、その感激もどれほど続くでしょう。ささやかで一時的な楽しみしか知らず、いつの間にか、はかない夢と区別のつかない記憶になってしまう。しかも「人生そんなもんじゃないか」とさとりすましている、というより、実態はアキラメている。一体自分は何のために生まれ、どこへ向かって生きているのか。方角が分からぬまま突っ走っているのは、ゴールのない円形トラックをグルグル回り続けるようなものでしょう。「人間に生まれてよかった」という生命の歓喜がないまま、人生の幕が閉じ、独りぼっちで暗い後生へと旅立ってゆく。
これが古今東西すべての人(十方衆生)の実相だと、阿弥陀仏は深い慈悲であわれまれ、どうすればこの苦悩の十方衆生を助けることができようかと苦心惨憺、五劫という長い間、悩み抜かれて、本願を建てられたのですね。
如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて 大悲心をば成就せり (親鸞聖人)
阿弥陀仏の本願のお目当ては、「逆謗闡提」の十方衆生(あらゆる人)とお話ししてきました。
逆謗とは、五逆罪と謗法罪のこと。
前回まで、この五逆罪と謗法罪について述べてきました。
今回は「闡提」についてです。分かりやすく教えられた文章を引いてみましょう。
「闡提とは梵語で、断善根の衆生のことで、無信と訳されています。微塵ほどの善根もない者をいいます。(中略)
謗法の者はまだ多少とも助かる縁手掛かりがありますが、闡提だけは全く助かる見込みがありませんから『涅槃経』には「死骸の如し」と説かれています。
親鸞聖人は「逆謗の屍」とおっしゃっておられる心です。
これは己の死を真面目に凝視して真剣に求道しなければ、見えてこない心です。(中略)
真剣に仏法を聴聞していきますと、ハッキリと二つの心があることが分かってきます。死に直面すれば、一切のものが総崩れになり真っ暗な後生に泣かねばならないのではないかと、上の心は焦っても、天王寺の鐘を蚊が刺したほどにも思わぬ心が、腹底に横たわっていることに気がつきます。
地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばず、仏法に明日という日はないのだと切り込まれても急ぎもしなければ慌てもしない、仏法に向かったら金輪際動かぬ心が闡提の機というのです。上辺の心は罪悪の恐ろしさに縮み上がって、今死んだら大変だと後生の一大事にジリジリしていても、下の心は悪を悪とも思わず、業を業とも感ぜず、キョロン、トロン、ボーと知らん顔している心です。あの人が死んだのかと驚いて同情の涙は流していても、その心の底には、自分はまだ死なない、まだ死なないと、後生とも菩提とも思わず、平気でせせら笑っている心が闡提です。因果の道理を整然と聞かせていただけば、教えには何一つ欠点はありませんから、頭は分かりすぎるほど合点承知しているのですが、どうしても承知しない納得しないやつが、腹底にドタ牛が寝ているようにビリッとも動きません。打ってもたたいても浴びるほど聞かせていただいても、うんともすんとも言わない心です。素直に聴聞しようとすればするほどひねくれてくる心、はしにも棒にもかからぬ心、三世の諸仏があきれて逃げた心はこの心であったのかと泣かずにおれない心です」
三世の諸仏があきれて逃げたこの逆謗闡提こそ、阿弥陀仏に見抜かれた十方衆生の正機であり、仏願の生起なのです。
仏願の生起について、お話を続けましょう。
阿弥陀仏はなぜ本願を建てられたのか。建てねばならなかったのか。それは「逆謗闡提」の十方衆生(私)がいたから。阿弥陀仏の本願のお目当ては、逆謗の屍の十方衆生であると説かれます。
逆謗闡提とは、逆は五逆罪。謗は法謗罪のこと。この二つをあわせて逆謗といわれます。
前回は、五逆罪についてお話ししていました。今回は、謗法罪について、でしたね。
謗法罪とは仏法を謗る罪。五逆罪も大変おそろしいと教えられますが、謗法罪は、それよりさらに、最も恐ろしい罪であると説かれています。
では、謗法罪とはどんなことをいうのでしょう。「仏教なんか迷信だ、邪教だ」とののしるのはもちろんですが、親鸞聖人は、
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば、謗法の者と申すなり」(末灯鈔)
と教えられています。善知識とか師とは、真実の仏法を説かれる先生をいいます。
おろかに思うということは、おそろかに思うということです。
仏法の話を聞いている時に居眠りしたり、ほかのことをしながら聞いたり、ねっころがって聞いているのは、善知識をおろそかに思っているからに違いありません。尊い仏法、真剣に聞かねばと思えば、居眠りや、ほかごとをしながら、ごろごろ寝転んで聞けるはずはないからです。また、今日の話は、わかりにくかった、ああだった、こうだった、と批評しているのも、善知識をおろかに思っているあらわれです。批評するということは、その人の頭の上に立たねばできません。説かれる方の上にたって、ああだ、こうだと批評しているのですから、善知識をおろかに思っているすがたなのですね。
このように考えると、謗法罪をつくらない人は、十方衆生の中にあるでしょうか。すべての人が、五逆罪、謗法罪をつくっていると、阿弥陀仏は見て取られ、そんな者を、何とかして助けようと奮い立たれたのが、阿弥陀仏なのですね。
今回は、仏願の生起について、続けましょう。
阿弥陀仏はなぜ本願を建てられたのか。建てねばならなかったのか。それは「逆謗闡提」の十方衆生(私)がいたから。阿弥陀仏の本願のお目当ては、逆謗の屍の十方衆生であると説かれます。
逆謗闡提とは何でしょう。逆は五逆罪のこと。謗は法謗罪のこと。この二つをあわせて逆謗といわれます。
五逆罪とは、仏教で説かれる五つの恐ろしい罪。無間業といわれ、どれか一つでも犯したら無間地獄へおちると説かれています。その一つが親殺しの罪です。手にかけて殺すのはもちろんですが、親鸞聖人は、
「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」と『末灯鈔』に記されています。親をそしるのも五逆罪なのです。
また、仏教では、「殺るよりも劣らぬものは思う罪」といわれ、口や体で行うより、心で思う罪をより重くみられます。
心で親を殺していれば、すでに五逆罪を造っているのです。
「はやく死んでくれたら」と思うのはもちろんですが「こんなに苦しいなら人間に生まれてこなければよかった」と
人間に生まれたことをのろっているのは、産んだ両親を恨んでいるのですから、親を殺しているのです。
この五逆罪を犯していない人はあるでしょうか。阿弥陀仏は、すべての人を五逆の者と見抜いておられるのです。
次回は法謗罪について。
阿弥陀仏の本願について、これまで何度か取り上げてきた内容を、ここで改めてまとめてみたいと思います。
親鸞聖人は、『教行信証』に、次のように記されています。
「聞」というは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを「聞」というなり。
衆生とは私たち。仏願とは、阿弥陀仏の本願のこと。仏願の生起本末を聞いて、疑いの心のまったくなくなったのを「仏法を聞いた」というのだ、と教導されています。
では、仏願の生起本末とは、どんなことでしょうか。
まず、生起とは、阿弥陀仏はなぜ本願を建てられたのか。どんな者のために本願を建てられたのか、ということです。これについては、これまで、『御文章』や『歎異抄』などのお言葉で述べてきましたが、経典のお言葉でいえば、「逆謗闡提」の十方衆生が目当てということです。
逆謗闡提とは、五逆・謗法・闡提のことです。これを「難化の三機・難治の三病」ともいわれます。すべての人(十方衆生)は、こういうものだと、私たちの実機(真実の機)を教えられたお言葉です。
では、阿弥陀仏の見て取られた私たちの実機、逆謗闡提とは、どういうことでしょうか。
今回のテーマは、「阿弥陀仏とは」というより、「釈迦牟尼仏とは」ということになるかもしれません。
しかし「釈迦牟尼仏とは」を知るには、「阿弥陀仏」なくして語れませんから、「釈迦牟尼仏とは」
を知るままが「阿弥陀仏とは」を知ることになりそうです。阿弥陀仏と釈迦牟尼仏の関係やいかに。
親鸞聖人は、このように和讃なされています。
「久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦耶城には応現する」
阿弥陀仏は苦しみ悩む私たち(五濁の凡愚)を救わんと、釈迦牟尼仏を指名して、
「釈迦よ、おまえは地球にいって、私(弥陀)の本願を説いてきなさい」と派遣され、
カピラ城(迦耶城)に現われられたのが釈迦牟尼仏である。
じつは釈迦は、弥陀の命ずるままに地球上に現われ、仏教を説かれたのですね。
このようなことを知ると、仏教は、弥陀の御心一つが説かれていると教えられるのも、
うなずけるでしょう。弥陀と釈迦は、師弟の関係だからです。